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私の履歴書復刻版

土光氏、新会社で技術部長 開戦・終戦経て社長に 第4代経団連会長 土光敏夫(15)

2017/7/3

清貧ぶりと無私の姿勢で「メザシの土光さん」と慕われ、1980年代の行政改革の先頭に立った土光敏夫氏(どこう・としお、1896-1988)の「私の履歴書復刻版」。国産大型タービンの受注は大きく伸びていきます。そんな中、芝浦製作所と共同で新会社を設立することに。土光氏はそこで技術部長に就任します。

■新会社へ転出――超多忙、GEへも出張 日米開戦で軍需工場に指定

タービン発注の急増によって、石川島と芝浦製作所との間で、新会社設立の構想が打ち出された。石川島と芝浦では、昭和2年(1927年)に、共同で大型陸上タービンの製作に当たるという協定が作られており、実際上も、石川島は昭和7年以降、芝浦の鶴見大工場の一部を借りてタービンを製造していた。

そこで、いっそのこと共同会社を作ろうと、昭和11年(1936年)、両社の共同出資で「石川島芝浦タービン」が設立された。私は、はじめこの新会社の設立には異を唱えていた。というのは、芝浦製作所は、GEと提携していたので、一緒になると、石川島がせっかくこれまで純国産で進んできた路線を変更せざるを得なくなり、また石川島がこれまで提携してきたエッシャウイス社との関係がおかしくなるからだ。しかし、一主任技師の反対の声など聞いてもらえるわけはなく、新会社は実現した。私はその新会社の技術部長を命ぜられ、創立総会当日、社員代表で誓いの言葉を述べさせられた。ともかく、「力いっぱい邁進(まいしん)しよう」というようなことを言ったと思うが細部は覚えていない。ただ、このときの案内状が残っていて、面白い文面がある。

「拝啓当会社創立総会日取ノ件

右ニ付キ石芝両社ノ御都合伺上候処予定ノ通リ来ル六月九日(火曜日)午前十時ヨリ丸ノ内日本工業倶楽部ニ於テ開催致ス事ニ御同意被下候ニ付別段ノ支障無キ限リ右様取計上可申何卒御含置被下度願上候

尚日取リニ就キテハ縁起ヲ気ニセラルル方モ有之哉ニ被存候間為念当日ノ運勢左ニ附記致置候

六月九日 八日みつのへいぬ 大安
たねまき 婚礼 井掘等万事定める事大によし
敬 具」

案内状に当日の運勢まで付記して、日本古来の風習をはっきりと文面上に表しているのが興味深い。「定める事大によき」日に発足した石川島芝浦タービンは、その後、大いに発展したことはいうまでもない。

設立当初、資本金300万円。両社から均等に6人の役員を出し、石川島からは代表取締役に松村菊勇、吉江介三、取締役に栗田金太郎、笠原逸二の各氏が就いた。新会社の所在地は、横浜市鶴見区末広町。敷地1万500坪(約3万4600平方メートル)、建物総面積4200坪(約1万3800平方メートル)、このうち工場は2800坪(約9200平方メートル)、工作機械類300台、起重機9台、試験復水設備2基。最大容量15万キロワットのもの、年産30万キロワットの製作可能な規模であった。

当時、京浜地帯で偉観を誇り、工場内に食堂、診療所、青年学校まで完備した模範的なものであった。

私は、新会社へ転出した直後、上松工場長ら数人とアメリカのGE本社に特派され、勉強、見学の機会を与えられた。向こうの技術者と忌憚(きたん)なく意見交換、大いに益するところがあった。

翌年2月に帰国、それから5カ月たって、取締役に任ぜられた。41歳であった。

技術部長になり、役員になっても、やることに変わりはない。少しでも優秀なタービンを作るために、みんなで議論をし合い、現場で一緒になって働いた。また、組み立てや修理のため日本全国各地も回った。文字通り、席の温まる暇はないというのが、この時代のことで、まるで食前食後にタービンというほど、技術屋として超多忙の時であった。

もっとも、管理職になってしまってからは、直接、新しいものを生み出すことについては縁遠くなった。私が、特許や実用新案をとったのは、この時代より少し前、昭和一ケタのころである。特許の最初は、昭和4年。特許番号83082、「推力軸承の改良」である。昭和4年は、石川島の技術陣が大活躍をした当たり年で、年間総計は16。高等工業同期で同時に入社した小倉義彦もこの年、2つの特許をとった。この16という記録は、戦後の昭和27年(19)まで破られなかった。

そうした新技術が、先述した、秩父セメントへ納めた純国産のスチームタービンに生きていたのである。

ついで、同7年、「蒸気タービンにおける疏水排除装置」「弾性流体タービンにおける速度調整装置」、同9年に「蒸気タービンの危急調速装置の改良」などで特許を得、実用新案もこのころ何本か登録した。

のちに私の長男、陽一郎も石川島に入社して、実用新案等を得ているから、栗田金太郎(岳父)、私、息子と、三代にわたっての取得というわけで、どうも珍しいことらしい。

しかし、私が得たこれらの特許、実用新案は、実際に、少しでも優秀なタービンを作ろうと、仕事をしているうちに自然に考えついたもので、むろん、私一人の力ではない。いわば、石川島技術者みんなの汗の賜物である。

こうしてタービンに明け暮れているうち、日本はついに太平洋戦争に突入、石川島芝浦タービンは、軍需工場に指定された。そこでまず昭和18年(1943年)、東芝(芝浦製作所は昭和14年に東京電気と合併、東京芝浦電気と改称)の首脳陣を説得して、長野県松本市に大工場を建設した。敷地30万坪、建物だけでも5万坪という広大なものであった。ここは、航空機用排ガスタービン、過給機などを製造する工場とした。

次いで、辰野工場(旧芝浦ミシン、現石川島汎用機械)、木曾工場、伊那工場(鐘紡から借用して建設、旧芝浦ミシン)と工場網を広げていった。しかし、鶴見工場は戦災で痛めつけられ、従業員も応召によって熟練労働者が減り、作業能率は日に日に低下していった。そうして、昭和20年8月15日の終戦。

一時期、全面的に生産は停止したが、終戦と同時にいち早く鶴見工場の再建につとめ、3カ月後の11月、早くも一部稼働可能となった。それから6カ月後、私は同社の社長に就任した。

まず、ナベ、カマの類を作って、一応、従業員の生活を確保し、あとは本格的な再建のため、鶴見と松本をピストン往復する生活が続いた。利用する汽車はたいてい夜行。超スシ詰めの混雑のなか、立ったまま眠った夜も何度かあった

この連載は、昭和57年(1982年)1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第20巻」(日本経済新聞出版社)の「土光敏夫」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2012年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

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