2台ピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲
ピアノとオーケストラで演奏されるモーツァルトのピアノ協奏曲を、ピアノ2台で弾くとどうなるか。共演を重ねるピアニストの久元祐子さんと指揮者兼ピアニストの伊藤翔さんに2台ピアノ版の協奏曲の楽しみを聞いた。
■ピアノとオーケストラによる曲をピアノ2台で
日本屈指のモーツァルト愛好家団体であるモーツァルティアン・フェライン(澤田義博会長)は、例会と称する会員の集まりで定期的に演奏会も催す。国立音楽大学教授でモーツァルト研究の第一人者の久元さんはこの例会で出演を重ねている。ここ1年間はモーツァルトのピアノ協奏曲をピアノ2台だけで演奏するデュオに重点を置く。ピアノで共演しているのは指揮者の伊藤さん。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者を務めた経験があり、2016年10月にはイタリアの第1回「ニーノ・ロータ国際指揮コンクール」で優勝した。現在は東京混声合唱団コンダクター・イン・レジデンスを務めるが、ピアニストでもある。久元さんと伊藤さんの2人はまず16年5月29日の例会でモーツァルト最後のピアノ協奏曲「第27番変ロ長調 K.595」をピアノ2台で演奏した。そして今年5月21日にはモーツァルトが20代前半に作曲した「ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271《ジュノーム》」を2人で弾いた。
交響曲の2台ピアノ編曲版よりも不思議な感じがする。ピアノ協奏曲はもともとピアノとオーケストラで演奏するので、2台ピアノ版になってもピアノ独奏の部分はそのまま生かされ、オーケストラの部分もこれまたもう1台のピアノで弾くことになるからだ。「ピアノ独奏の部分もオーケストラの部分も同じピアノ同士の音色になるので、音がぶつかってしまうなど、バランスが難しい」と伊藤さんは話す。一方で「オーケストラの弦楽器の部分をピアノで弾くと、より音がはっきり出る」とも語り、楽曲がどんな音の組み立て方になっているか、音楽の構造が明確になる点も指摘する。
今回2人で弾いた「ピアノ協奏曲第9番」は、若い頃のモーツァルトが特に好んで自ら演奏した曲だ。「第1楽章の出だしに(オーケストラによる通常の序奏なしで)いきなりピアノが入ってくるなど、特異な曲。ほかの作品には見られない独特の個性がある」と久元さんは説明する。「この曲からピアノへの習熟が深まり、モーツァルトの顔が出てきた」。カデンツァ(即興的ピアノ独奏部分)が第3楽章に2カ所あり、しかもそれぞれ3種類も書いていることからも、モーツァルトのこの曲への思い入れの強さが感じられる。
■指揮者とピアニストが議論しながらピアノで共演
「モーツァルトは天才ピアニストだったので、自分で弾くことを前提に書いているピアノ協奏曲が多い。自分にとって日常の楽器だったピアノを使って作品を世に問うた。オペラ作曲家でもあったので、ピアノ協奏曲の中に歌心や様々なキャラクターを盛り込むなど、オペラの楽しみも入っている」と久元さんは「第27番」までのモーツァルトのピアノ協奏曲の特徴を挙げる。その上で「弾いて作曲し、みんなの前で披露したという当時の様子が最も伝わってくるのがピアノ協奏曲の分野だ」と説明する。
実は2人が2台ピアノ版で演奏するのは前哨戦といったところだ。6月27日には神奈川県民ホール小ホール(横浜市)において、伊藤さんの指揮による神奈川フィルと久元さんのピアノで「ピアノ協奏曲第9番」の原曲を演奏する。「神奈川フィル・モーツァルト・ディスカバリーVol.2」と題された演奏会で、伊藤さんは本来の指揮者に戻り、モーツァルトの「交響曲第33番変ロ長調K.319」も演奏する。「オーケストラによる原曲で弾かせてもらう前に、2台のピアノでいろいろと議論しながら音楽をつくり上げていくという過程が面白い。神奈川フィルとの本番前のステップとして楽しく練習をさせてもらっている」と久元さんは言う。だが単なる練習のためだけの2台ピアノ版というわけでもない。「オーケストラのパートをピアノで弾いた方が、ハーモニーの構造が分かりやすい面もある。ピアノとオーケストラによる原曲を何度も聴いている人でも、改めて発見し、味わえるハーモニーがあるはずだ」と久元さんは聴き手にとっての楽しみも指摘する。
2台ピアノ版への編曲はモーツァルトが作曲した18世紀当時から存在していた。「交響曲やピアノ協奏曲などオーケストラを含む曲の楽譜が出版されると、それと同時か直後にピアノ用のアレンジがすぐに出版される習わしだった。家庭でどんな曲なのか弾いて聴いて楽しむために、特にピアノ連弾や2台ピアノ版が好まれ、かなりの種類が出回った。レコードが登場する20世紀初頭までにあった習慣だ」と伊藤さんは説明する。モーツァルトの「ピアノ協奏曲第9番」の2台ピアノ版も「作曲されて間もない頃からあった」と言う。その後、時代とともに編曲の細部が改訂されることもあったが、「どの編曲も大して違いはない」と伊藤さんは指摘する。モーツァルト自身が作曲したピアノ独奏とオーケストラのパートが不変であるため、編曲も大きく変えようがないようだ。
■まずは原曲を味わってから聴き比べる楽しみ
2台ピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲を楽しむためには、原曲を聴いて親しんでおいた方がいいのは言うまでもない。名盤はきら星のように存在する。その中であえて推薦盤を挙げるとしたら、筆頭にくるのは間違いなくリリー・クラウスのピアノによる「モーツァルト:ピアノ協奏曲全集」だろう。20世紀最高のモーツァルト弾きと呼ばれるクラウスがスティーブン・サイモン指揮ウィーン音楽祭管弦楽団と1965~66年にウィーンでレコーディングした音源は、CD12枚組のボックスセットとして最近ソニーから発売された。クラウスのしなやかで繊細なピアノによる表情付け、疾走感あふれる管弦楽との掛け合いなど、録音から50年を経た今でもその演奏は比類ない輝きを放つ。
このほか全集では、ダニエル・バレンボイムのピアノと指揮によるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の1990年代録音盤(ワーナー)を挙げられよう。シューマンやブラームスらロマン派の作品を捉えるような厚い響きの演奏だが、誇張のない自然体の推進力を持ち、聴きやすい。また、廉価盤ではあるが、NAXOS(ナクソス)レーベルから出ているイェネ・ヤンドーのピアノによる一連のピアノ協奏曲集が捨てがたい。マーティアス・アンタルらの指揮によるコンツェントゥス・フンガリクスが管弦楽を担当し、1990年前後に録音された。いずれもヤンドーのクリアなピアノの音色と相まって、モーツァルトの典型といえる明快な音の構造美が浮かび上がる。一方、モーツァルトが作曲した当時の古楽器仕様の演奏では、ジョス・ファン・インマゼールのフォルテピアノと指揮によるアニマ・エテルナの1990~91年アムステルダム録音盤を挙げるべきだろう。
「ベートーベンも好んで弾いた」と久元さんが言う人気の「第20番ニ短調K.466」では、クララ・ハスキルのピアノ、イーゴリ・マルケビッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団による1960年パリ録音盤が欠かせない。ロマン派を先取りした悲劇的な音のドラマを浮き彫りにし、古典派の硬質な構造美とフランス風の流麗な叙情を併せ持つ演奏だ。この「第20番」と「第24番ハ短調K.491」というモーツァルトのピアノ協奏曲の中でただ2つの短調の作品をカップリングしたCDがユニバーサルから出ている。こうした原曲の名盤を味わってから2台ピアノ版を聴くといい。
■ジュノームではなくジュナミーさんに憧れて作曲
久元さんと伊藤さんによると、今回2人が演奏した「第9番」は「ウィリー・レーベルク(1863~1937年)編曲」と推察されるとのことだ。ただ、編曲者は明確に分かっていないのが実情のようだ。それだけ18~19世紀の古い時代から様々なアレンジによって家庭のピアノで練習され、親しまれてきた証拠だ。「これだけレベルの高いピアノ譜を家族2人が弾いて楽しんでいたとしたら、かなり高尚な趣味だ」と伊藤さんは感嘆する。本稿の映像では2人が5月11日にこの曲を練習する様子を捉えているが、モーツァルト自身の作曲による原曲通りのピアノ独奏部分のみを取り上げている。原曲によるピアノ独奏部分は久元さんが弾いている。
謎の多い「ピアノ協奏曲第9番」だが、この曲の「ジュノーム」という愛称を巡ってもいろんな推察がなされてきた。これまではフランスの女性ピアニスト、ジュノーム嬢に献呈されたため、「ジュノーム」と呼ばれるようになった、というのが通説だった。しかしこれについては疑問の声もあった。富士銀行(現みずほ銀行)のパリ支店長を務めた経歴を持ち、「パリのモーツァルト――その光と影」(アカデミア・ミュージック)という著書もあるモーツァルティアン・フェライン会長の澤田さんは「フランス語で『ジュノーム』は『若い男』という意味。フランス人で『ジュノーム』なんて姓の人はあまり聞かないから、真実はほかにあると思っていた。モーツァルトにジュノームというあだ名が付いて、それが曲の愛称になったのではないかという見方もあった」と話す。
実際はどうなのか。モーツァルト研究の総本山、国際モーツァルテウム財団(オーストリア・ザルツブルク市)の文献に基づき、澤田さんは「正しくはジュノームではなくジュナミーだ」と主張する。「彼女はパリ・オペラ座のバレエ部門のヘッドだったジャン=ジョルジュ・ノベールの長女でピアニスト。結婚してジュナミー姓になった。そのジュナミー嬢が実際に1777年にザルツブルクでピアノ独奏を担当し、『第9番』を初演した」と説明する。この事実を最初につかんだのは2004年、音楽学者のマイケル・ローレンツだという。しかし「初演された月日までは記録が見つかっておらず、詳細は突き止められていない」と澤田さんは言う。
「ピアノ協奏曲第9番」に様々な編曲が残っていて、いろんなテーマで議論を呼び起こすのは、この曲が親しみやすくチャーミングであるからだ。モーツァルトがフランスの女性ピアニストに触発されて作曲し、パリへの憧れがうかがえる音楽。2人だけでピアノを弾けば、より一層の親密な仲になれる。モーツァルトがそんな状況に思いをはせたかどうかは定かではないが、2台ピアノによるピアノ協奏曲は今も演奏され続ける。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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