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私の履歴書復刻版

教えは「国士魂」とデモクラシー 土光氏の関西中時代 第4代経団連会長 土光敏夫(6)

2017/6/1

清貧ぶりと無私の姿勢で「メザシの土光さん」と慕われ、1980年代の行政改革の先頭に立った土光敏夫氏(どこう・としお、1896-1988)の「私の履歴書復刻版」。農村の少年は中学に入って偉大な人格に出会います。大正時代の初めのころの話です。

■山内校長――繰り返し“国士魂”説く 心身鍛錬に100キロの徒歩行進

関西中学時代、私は偉大な人格に出会った。それは、山内佐太郎先生という関西中学第10代の校長である。

山内校長は、兵庫県揖西村の出身、28歳のとき東京高等師範を卒業された。31歳、京都府立第四中学校長、36歳、千葉県佐倉中学校長を経て、40歳、知事の推薦で関西中学に来任された。大正2年(1913年)9月、私が3年のときであった。

関西中学(高校)の旧校舎

山内先生は、日本書紀神代紀の「天壌無窮」を掲げて、徹底した精神主義の教育を行った。その目ざすところは、“国士魂”とデモクラシーとの調和であった。毎日の朝礼会や修身の時間に、先生は繰り返し次の6項目を述べられた。

第一、至誠を本とすべし。至誠こそは精神の統治者である。誠実であること、潔白であることを中心とせよ。

第二、勤労を主とすべし。「勤労を怠らないならば、念仏を唱えずとも、お祈りを行わずとも、神明と交り、仏陀の慈悲に浴す」という二宮尊徳と同じ思想に基づいたものである。

第三、徳操を体とすべし。徳操を身につけるには、意志の強固と心情の高潔とを必要条件とする。

第四、智能を用とすべし。

第五、報国を期すべし。

第六、国士魂を養うべし。

この言葉は、名筆家、森谷金峯先生の筆によって講堂の正面入り口に掲げられてあった。

また、山内先生は、地方講演によく出かけられ、地域社会の文化発展に意をそそがれた。なになにらしく、つまり人は人らしく、男は男らしくということを強調された。関西中学が、新たに校章、校旗を制定し、生徒は、ゲートル巻き通学、正門での敬礼実行などを決められたのも先生である。

関西中学に6年間在任され、その後、明石中学に移られた。この明石中学時代、夏の甲子園大会で、明石対中京商、準決勝戦25回延長という球史に残る記録がつくられた。

先生が、特に野球に力を入れられたという記憶はないが、心身の鍛練を奨励されたことは確かであった。着任早々のころ、先生の発案で中国山脈横断100キロの徒歩行進が実行された。岡山から姫路経由で豊岡を出て、城崎から鳥取砂丘、出雲大社へ。帰りは米子から津山まで上り、津山から汽車で岡山へ戻る2泊3日の旅程であった。全校生徒500人が、地下タビ、わらじばき、重装備のリュックを背負っての行進。体力のない者はバタバタ倒れた。

私はラッパ手をつとめ、倒れた下級生を一人一人かつぎあげた覚えがある。

先生の薫陶を受けた人たちには、山田良秀(北海道電力取締役)、岡野直七郎(歌人)、坂田徳男(カント哲学者)、佐々木吉郎(明大総長)、帆足計(社会党、衆議院議員)、田中弘道(岡山市長)らがいる。

なかでも変わり種は、アメリカより大西洋横断の最初の飛行に成功した東善作氏。

山内校長は、大正7年(1918年)5月、まだ大戦中にもかかわらず「タイム・イズ・ナウ」と言って、自費でアメリカへ教育視察に出張された。日ごろの抱負をアメリカへ行って実地に体験したいという信念から出たものと思うが、戦中、最も危険な時期に太平洋を渡るところが、いかにも山内校長らしい。

まる5カ月の出張の見聞は、帰国後、『米国教育概観』という400ページからの著書にまとめられた。以後、デモクラシーという語を盛んに唱えられ、生徒間にもそれが流行した。

この連載は、昭和57年(1982年)1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第20巻」(日本経済新聞出版社)の「土光敏夫」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2012年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

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