「健康」を世界に ゴールドマン流で多国籍社員束ねる「ヘルステック」ベンチャーのフィンク(6)

小泉泰郎氏(左から2人目)は豊富なグローバル人脈をフル活用している。来日した米ゴールドマン・サックスの幹部、フィンクの溝口勇児社長(右)とともに
小泉泰郎氏(左から2人目)は豊富なグローバル人脈をフル活用している。来日した米ゴールドマン・サックスの幹部、フィンクの溝口勇児社長(右)とともに

スマートフォン(スマホ)などを駆使して健康に役立つ情報を一人ひとりに合わせて提供する「ヘルステック」ベンチャーのFiNC(フィンク、東京・千代田)。その成長への流れを決定的にしたのが2年前に合流した小泉泰郎・副社長兼最高財務責任者(CFO、53)だ。日本興業銀行(現みずほ銀行)とゴールドマン・サックス証券で実績を積んだ金融マンは、用意された上場企業社長の椅子を蹴り、無名のベンチャーを選んだ。先輩への義理、幹部の情熱、自分が世話になったスポーツへの恩返し。この3つが決め手だった。(聞き手は編集委員 渋谷高弘)

――フィンク入社までの経歴を教えてください。

「英国生まれの帰国子女ということもあって、中学、高校、東大在学中はサッカーばかりやっていました。1986年に興銀に入ってから興銀証券の立ち上げに参加するなど、最大手に追い付け、追い越せとやっているうちに金融危機が訪れました。公的資金が入り、国内の不良債権の後始末に追われる状況となりました。そんなこともあって99年に興銀を辞め、ゴールドマン・サックス証券に移籍しました」

「フィンクに参加したのは、お世話になったスポーツへの恩返しという意味もある」と話す小泉氏

――ゴールドマン・サックスではどんな取引を手掛けたのですか。

「思い出に残っているのは、2000年に独ダイムラークライスラー(現ダイムラー)が三菱自動車工業との資本・業務提携をした時の資金調達をお手伝いしたことです。2001年9月11日の米国同時テロの時は、米国の航空会社やレジャー関連会社が資金調達に苦しんだことがありました。そこで私が日本市場でウォルト・ディズニーの3年債を発行して1000億円の資金調達をお手伝いしました」

「日本で初めて『40年債』を発行したのも印象に残っています。日本道路公団(現日本高速道路保有・債務返済機構)が2005年に発行した財投機関債のお手伝いです。日本にない市場をつくる、まだ誰もやったことのない、国もやったことのないことをやる。そういうことが大好きでした」

――そんな華やかな経歴をもつ小泉さんが、なぜフィンクに転身したのですか。

「まず50歳を機にゴールドマンを辞めました。転職以来、懸命に働いてきたから、15年もいられてもう十分だと思いました。難病だった父親が数年前に亡くなり、その分、自分は好きなように生きようと決めたこともありました。1年ぐらいぶらぶらしていた15年4月、ある日本の上場企業から社長をやらないかと声がかかりました。その気になって準備していたころ、興銀の先輩で、フィンク副社長の乗松文夫からメールを受け取ったんです。『次期CFOを探している。君は難しいかもしれないが、誰か良い人を探してくれないか』との依頼でした。旧興銀で15歳も先輩の乗松に頼まれてイヤと言えるわけがありません(笑)」

「誰かを紹介するとしてもフィンクを知らなければ話にならないので、まず当時のオフィスを訪問し社長の溝口勇児や他の幹部と会いました。溝口の個性と夢、幹部の雰囲気なども気に入り、『個人的に出資してもいいか』などと思い、別れました。その晩、溝口から私宛ての長いメールが届いていて『あなたに惚(ほ)れました。絶対にフィンクに加わってください』みたいな趣旨のことが書かれていました。乗松からも『頼むよ』と連絡があって、それから3人で3日間続けて飲食をともにしました。その結果、上場企業社長の方をやめて、フィンクに加わることにしました」

――思い切った決断ですね。なぜですか?

「まず溝口の情熱とビジョンが気に入りました。それから乗松が参画しているという重み。他のメンバーの雰囲気も良かった。可能性を感じたんです。それらに比べると内定していた上場会社の幹部の方々は、申し訳ないけれど見劣りしました。自主性もないし、新しいことに挑戦する気概も感じられなかった。もちろん、それを変えるのが自分の仕事だろうとは思っていましたが(苦笑)」