揺れるカンヌ映画祭 動画配信大手の作品巡り火花カンヌ国際映画祭リポート2017(1)

その一方で、今回の騒動は「映画とは何か」という根本的な問いを投げかけた。つい数年前まで続いたフィルムの時代であれば、その答えは簡単だった。原則として1秒24コマの映像が間欠的にプリントされた35ミリフィルム。そのモノとしての形が「映画」を規定してくれた。プリントは安価にできないが、それさえあれば世界中どの映画館でも上映は物理的に可能だった。

映画の定義、デジタル化で曖昧に

映画がデジタル信号化された今、映画はネット上を自由に瞬時に安価に移動できるようになり、パソコンでもスマートフォンでも簡単に見られるようになった。資金回収のメドさえ立てば、新作の配信市場は急速に拡大するだろう。しかし、スクリーンに映し出し、一定の時間を暗闇の中に座って、多くの人と共に見るのが、リュミエール兄弟の発明以来の「映画」の定義であることも一方の事実だ。その当たり前のことが揺らいでいる。映画という表現形式の輪郭がぼやけてきている。

これは確かに既得権者と新規参入者の市場を巡る争いでもある。しかしそれだけですむ問題ではない。文化の問題なのだ。映画館経営者だけでなく、映画作家にも制作スタッフにも強烈な不安がある。観客はどうやって「映画」を見るのか? どんな明るさで? どんな音響で? どんな色調で? どれほど集中して見るのか? アルモドバルの言葉はそんな作り手の不安を代弁している。

テレビが登場した時も映画界に不安はあった。しかし今日、テレビと映画が別の表現であることを疑う人はほとんどいない。では配信はどうなのか。「子供たちが映画館に行くことに影響はない」と語ったウィル・スミスのような楽観論も一部にある。ただテレビの時と決定的に違うのは、フィルムというモノとしての映画の根拠がなくなっていることだ。

カンヌはどの作品も最高の状態で鑑賞できるように、上映チェックに多大な時間と労力を払っている。多くの監督がそのことに感嘆の声をあげてきた。映画とは何か、という問いに対する答えは簡単にでるものではない。しかし、少なくともカンヌはそのことを考え続ける役割を背負わされている。今回の決断の重みはそこにある。

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