「担保は創業者の夢と私の存在」 古巣の銀行に直談判「ヘルステック」ベンチャーのフィンク(5)

日本興業銀行出身の乗松文夫・フィンク副社長(左端)。被災地の復興に取り組んでいた2014年に溝口勇児社長(右端)と出会い、入社を口説かれた
日本興業銀行出身の乗松文夫・フィンク副社長(左端)。被災地の復興に取り組んでいた2014年に溝口勇児社長(右端)と出会い、入社を口説かれた

スマートフォン(スマホ)などを駆使して健康に役立つ情報を一人ひとりに合わせて提供する「ヘルステック」ベンチャーのFiNC(フィンク、東京・千代田)。今回は副社長として経営の一角を担う乗松文夫氏(68)に入社前後の経緯を振り返ってもらう。日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行し、みずほ銀で常務執行役員まで務めたベテランバンカーが、なぜ若者ばかりのベンチャーに転じたのか。背景には2回の大震災で生じた心境の変化があった。(聞き手は編集委員 渋谷高弘)

――興銀のご出身なんですね。

「はい。興銀では審査部、海外本部、ニューヨーク支店、債券のチーフディーラーなどを経て2001年6月、執行役員個人営業推進部長になりました。興銀の名前は02年4月になくなったので、最後に役員になったわけです。銀行では、個室、秘書、専用の送迎車が付く典型的な役員生活を送りました。その後、協和発酵(現協和発酵キリン)に移って常務執行役員や化学品商社のミヤコ化学(東京・千代田)の社長などを務めました」

――銀行マンの典型的な出世コースを歩まれたのに、なぜベンチャー企業なのですか。

フィンクに参加する前は被災地で復興支援活動に取り組んでいた(岩手県大船渡市で)

「2回の大震災での“被災経験”が転機になりました。まず1995年の阪神大震災ですが、当時私は単身赴任で兵庫県芦屋市の社宅に住んでいました。建物は傾かないで済みましたが、もちろん内部はめちゃくちゃ。特に向かいにあったある地方銀行の社宅が全壊したのがひどかった。それを掘り起こしたり、避難した方々を当行のグラウンドに受け入れたり、炊き出しをしたりして。忘れがたい体験になりました」

「そして2011年3月11日の東日本大震災です。当日、娘が仕事で仙台に出張していました。取引先と面談していたら激震が襲って、机の下に潜って恐怖の時間を過ごしたそうです。もちろん東京に戻れなくなりました。私は彼女にタクシーで福島まで帰るように言いましたが、福島から東京に行く飛行機が全部満員でした。そこで彼女はまず札幌まで飛び、2日半たってようやく帰京できました。当時私はミヤコ化学の社長でしたが『のうのうと社長をやっていていいのか。何か被災地のためにしなければいけないのではないか』という思いに駆られ、6月に同社を辞め、7月に復興支援の仕事を始めたのです」

――どのくらいの期間、どんな支援をしたのですか。

「丸2年やりました。その間、東京と岩手県を何十回と往復しました。最初の1年は東京大学の先生と一緒に大船渡市に東北最大規模の太陽光発電所を誘致するという計画を進めました。シミュレーション、入札、農地転換の申請などをやり、誘致・着工までこぎ着けました。計画倒れになりましたが、植物工場の誘致や地元水産業(ホタテ養殖)の復興も試みました」

「後半1年は、過疎地に病診連携システムを構築する計画を進めました。大船渡市の基幹病院と周辺地域の診療所、在宅診療、介護現場などをICT(情報通信技術)で結んで効率化する構想でした。カルテを共通にし、どの施設でも患者の治療歴や服薬情報が分かるようにしようとしました。合意を得るため岩手県庁に行ったり、保健所に行ったり、地元のお医者さんを集めてセミナーを開いたり……。なかなか計画が進まず焦燥感が募りました。そのころ我々の病診連携システム開発を手伝ってくれていたIT技術者が現在のフィンク取締役最高技術責任者(CTO)の南野充則で、彼から『東京に面白い人がいます。会ってみませんか』と誘われたのです。それがフィンク創業者の溝口勇児でした」