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犬が怖い私 猛犬にらみ、体を張って得た『ケツ論』

立川談笑

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NIKKEI STYLE

今回のお題は、ペット。

いきなりですが、私は犬が怖いのです。大型犬が怖い。小型犬も怖い。中型犬も当然怖い。とはいえ、心を許せるワンちゃんたちとも数多く出合ってます。だから正確にいうならば、「私にとって犬は基本的に怖い。ただし、例外もある」と、こうなります。あくまでも嫌いではないのです。ただ怖い。こんなの世間ではどれほど少数派なのか分かりませんが、そんな話を今回はしてみます。

こう見えて犬が怖いんですよぉ、なんて話をするといつも言われるのが、「ああ。談笑さん、幼いころ怖い思いをしたんでしょう」というやつ。しましたよ。しましたとも。強い思い出はふたつ。あれはどちらも、小学校に上がってすぐくらいのこと。

ひとつめ。通学路に運送会社があって、広い駐車場の奥に柴犬っぽいのが1匹いつも鎖でつながれていました。こいつが最悪に狂暴でして。子どもの姿を見るや、一心不乱に吠えていました。チェーンも切れよとばかりに身をよじり歯をむき出して、視界から子どもが消えるまで攻撃的に吠え続けます。ギャンギャン、ギャン!!!

で、これからはお約束の展開です。この犬がいつも通り激しく騒ぎたてるだろうと、ふといたずら心を起こした私がアッカンベーをしたのです。そしたら猛然と、一直線にこちらに走ってきました。鎖が外れてる。

「わあ、たすけてー!」

とっさに横合いからお兄さんが飛び出して、犬を押さえつけてくれました。あの時のランニング姿の職工さん、ありがとう!

もうひとつ。いつもダックスフントを散歩させてたおばちゃん。って、もはや怖いのは犬よりおばちゃんだ。リードにつながれた小型犬が、10匹も。ちょっと目には犬ぞりのようですが、こちらも全員狂暴です。狭い路地をギャギャン、ギャンギャン! と左右前後に犬たちがおばちゃんを中心にした直径3メートルの面でこちらに迫ってくる。逃げ場、なし。まさに悪夢のようでした。

ここからは、そんなトラウマを抱えた私の犬ばなしです。

テレビ番組のロケ取材のために訪れたのは大阪。その一般家庭は、たまたまブリーダーさんのお家でした。「ボルゾイ」というとてつもない大型犬が、居間といわず廊下といわず室内に7~8頭もたむろしていました。大人しく、白い毛が長くて優雅なのだけれども、なにしろ体高が1メートルもあろうかという巨大なサイズで、ゆっさゆっさと動き回るさまはゆうに中学生くらいの存在感はあります。犬が怖い身としては、とても取材になんてなりません。お願いをして、中学生8人分に相当するボルゾイの皆さんには別室に移動してもらいました。はいはい、皆さんはそこでおとなしく自習してなさい。

ふう。やっとインタビュー開始です。さっきまでボルゾイくんが悠々と身を横たえていたソファーをお借りしてお話をうかがっていると、なんだか腰のあたりがモゾモゾする。カメラを気にしつつ、ちらりと目をやるとそこにボルゾイくん! 匂いを嗅いでんの。うわあ、あんたたちは自習時間でしょうがあ! ああ。いや、たかだか犬です。犬ですよ。それでも想像してみてください。何の気なしに振り返ったら、通常の人の顔の2倍もある長さの、やけに細長い頭があるんです。あれには驚いたなあ。

 こんなこともありました。これもロケ中。軽井沢で、今年は民家近くまで野生の熊が下りてきてるぞ、っていう話題でした。わりと新しい一軒家に、「屋外に置いてあるゴミバケツに熊の爪あとがついていて驚いたんです~」、なんて話をうかがいに行ったときのことです。小型、いやあれは中型かなあ。長毛の、ヨークシャーテリアみたいな犬がいて、それがもう力の限り吠えるわ吠えるわ。我々が門から庭に入ろうとしただけで、ワンワン、ワワン! 1階バルコニーの木柵の隙間から口先を出して、ギャンギャン、ギャギャン! 吠えるというより、かみつこうと攻めかかる風情です。うん、番犬としては立派です。とはいえ、これがとことん鳴きやまないのには困り果てました。

「はい。あっちに閉じ込めたからもう大丈夫です。どうぞ」

うながされてお宅にお邪魔しました。ところが、別室からの大きな鳴き声はドア越しに響き渡って収まりません。しばらく待って、犬がいくらか静まった頃合いを見計らって収録を試みました。

「では、よろしくお願いします」

「お願いします」

「まず、いつごろどんな異変に気付いたんでしょう?」

「ええと、今年の春ころ。3月『ワン』でしたか。その時はそれらし『ワンッ』物音も気づかなかっ『ワンワン!』です。でも次の朝起きてみた『ワン、ワンワン!』のあたりが『ワン、ワン、ワワワン!』で。別に『ワワン!ワワワン!ワン!ワン!』して『ギャワン!ワワワン!』に『ワワワン!ワワン!』……というか、ごめんなさいね」

「いえいえ。…ちょっと止めましょうかね」

いやあ、これじゃあとても収録になりません。とりあえずこの場はお宅から離れて作戦会議です。そこで信じられないセリフを吐いたのはカメラマン氏でした。

「犬を鳴きやませるには、誰かがケツの匂いを嗅がせればいいんだって」

何なんだ、その世迷いごとは。

「えー!試したことあるんですか?」

「ううん。むかし、『伊東家の食卓』でやってた」

あうー。「伊東家の食卓」とは、その当時、裏ワザ的な生活情報をふんだんに紹介していたテレビ番組です。それでもほかに思いつく手段もないし、ダメ元でとにかく試してみようという話になりました。さあそうなると問題は、あの狂暴犬の鼻先に誰がケツを突き出すかです。ここは公平にジャンケンで決めよう、と。その結果、私が負け。犬は怖いし、ジャンケンには弱い。ああ、もう。これ以上、私の人生にどんな可能性が残されているというのか。

意を決して犬に近寄ります。遠目にも「ギャワンギャワン」と柵の間からしきりに突き出される口は、まさに口角泡を飛ばして、牙はむき出し。映画「遊星からの物体X」にこんな犬が登場したっけ。謎の宇宙生命体に憑依(ひょうい)されなくてもここまでできるのか。すごいな、犬。

勇気をふりしぼり、尻を突き出して後ろ向きに柵に近づく私。一方、目の前に近づく尻にかみつこうといよいよ勢いを増す犬。さらに近づく。犬のテンションもマックス。がんばれ、ケツ。ひるむな、ケツ。危ない、危ない!かまれる~! ……と、その瞬間。ウソのように犬が鳴きやんで大人しくなりました。張りつめた風船がパンとはじけた後のように、しゅるるる、る。

おお、勝った!天上からまばゆい光があふれ、勝利をたたえるファンファーレが鳴り響く気分です。やった。ケツの、人類の勝利です。

なんでも、そんな犬は見知らぬ人間に対する恐怖や警戒心から吠えているのであって、しっかりとその人物の匂いを嗅ぐことでひとまずは安心して落ち着けるのだ、とか。

この時ふと頭をよぎったのは、「野生の熊に襲われたら、とっさに尻の匂いをかがせて撃退できるか」ということ。まあ、普通にケツから襲われるんだろうな。そらそうだ。

   ☆      ☆      ☆

次回テーマは「お弁当」。笑二から、行ってみよう!

(次回5月21日は立川吉二さんの予定です)

立川談笑
 1965年、東京都江東区で生まれる。海城高校から早稲田大学法学部へ。高校時代は柔道で体を鍛え、大学時代は六法全書で知識を蓄える。93年に立川談志に入門。立川談生を名乗る。96年に二ツ目昇進、2003年に談笑に改名。05年に真打昇進。古典落語をもとにブラックジョークを交えた改作に定評がある。十八番は「居酒屋」を改作した「イラサリマケー」など。

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