ハワード氏が落ち着いた口調で、30年以上も前の記憶を辿る。「1983年のことだ。京都で、山内さん、荒川さん、私、そしてアタリのオーナーだったタイムワーナーのトップが顔を合わせた。そこで、ファミコンをアタリの販売網を通じて、世界中に売るという交渉が行われた」

任天堂、アタリと組む予定だったが

ところが、順調に見えた交渉は、アタリ側の撤退で破断となる。理由は諸説伝えられるが、「結局、今でも、なぜ彼らが交渉から手を引いたのか、わからない」とハワード氏は話す。「我々としては、いいディールだと思った。彼らは、世界中で販売してきた実績があった。任天堂にはその販売網がなかった。日本でしかビジネスをしていなかったから」。それがしかし、難を逃れる結果につながるとは、その時思わなかったのではないか。

ハワード氏は、「その交渉がうまくいっていたら、米国任天堂はどうなっていたのか」と話し、言葉をつないだ。

「全く違った運命を辿っただろう」

アタリの不振が明確となったのは、それから間もなくのこと。仮にアタリと合意していたら、混乱の影響を避けられなかったかもしれない。

結局、米国任天堂は自らファミコンを米国用に開発し、販路を拡大していったが、ビデオゲーム・クラッシュが残した爪痕は小さくなかった。ニューヨークでテスト的に販売したのは1985年9月のこと。消費者の反応は悪くなかったものの、市場は冷え切っていた。

ハワード氏も、「メディアだけじゃなくて、小売店も懐疑的だった。ホームビデオゲームの市場は終わったと見られていたんだ。特に、大きな店は消極的だった。彼らは、アタリやコレコの崩壊を目の当たりにして、彼ら自身も損害を受けたから」と語り、説明を続けた。

マリオ 業界の救世主に

「その時だけじゃなくて、それから3~4年は、ホームビデオゲーム市場はなかなか回復しなかった。いろんなお店で売ってもらったが、少しでもセールスが滞ったりすると、彼らはナーバスになった。前の記憶があるから。アタリに何が起きたか、知っているから」 ただ、米国任天堂は、アタリらの失敗を糧とした。「とにかく当時は、ゲームの質が悪かった」とジェームス氏。「末期に、E.T.というゲームが出て、実際にプレーしてみたが、それは酷いものだった」。それを受け米国任天堂は、ハードもソフトも質の高いものを目指し、サードパーティがゲームを作る場合でも、クオリティを第一に求め、小売店、消費者に信用してもらおうと務めたのだという。

かつて大ヒットしたゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」

そんな過程では、スーパーマリオブラザーズは、業界の救世主となった。ジェームス氏が懐かしげに振り返る。「我々が作ったすべてのゲームに自信があったが、スーパーマリオブラザーズは、発売と当時に伝説的なゲームになった。とにかく楽しかったから」。発売当初、まだ業界に対する拒否反応は強かった。しかしやがてマリオの魅力が、警戒を解いていった。コミカルでどこか人懐こいキャラクターには、それだけの力があった。

気は確かか マリナーズ救う

そこからの発展は知られる通り。米国任天堂というより、米国のゲーム業界の土台が、そうして築かれた。そしてまた、米国任天堂なら経営難のマリナーズを救ってくれるのではという期待がかけられるようになるまで、時間はかからなかった。

 なお、その申し出を受けたのは、山内社長(当時)の一存による。荒川氏から連絡を受けたリンカーン氏は、「気は確かか!?」と言葉をなくしたそうだが、さらにこう伝えられたそう。

「後は、任せた」

ハワード氏に対する山内社長の信頼がいかに厚かったかが分かるエピソードでもある。

丹羽政善
立教大学経済学部卒業。出版社勤務ののち1995年に渡米。インディアナ州立大学スポーツマーケティング学部卒業。著書に「MLBイングリッシュ~メジャーリーグを英語のまま楽しむ!」(ジャパンタイムス)、「メジャーリーグビジネスの裏側~本当に儲かってるのはこの人達~」(キネマ旬報社)など。シアトル在住。
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