シンクロナイズドスイミングの演技判定にもAIが導入されるかもしれない
(リオ五輪での日本チームの演技)今、産業界で最もホットなテーマの一つが人工知能(AI)だ。その波はスポーツ界にも押し寄せている。競技の現場でAIはどこまで活用できるのか、選手やコーチはAIとどう付き合うべきなのか。異なる専門分野を持つスポーツ界の3人が話し合った。トップアスリートの強化拠点である日本スポーツ振興センター(JSC)ハイパフォーマンスセンターの久木留毅氏、ソウル五輪のシンクロナイズドスイミング・デュエットで銅メダルを獲得し、現在はメンタルトレーニング上級指導士として活動する田中ウルヴェ京氏、そして慶応大学SDM(システムデザイン・マネジメント)研究科准教授の神武直彦氏だ。対談の模様を2回にわたって伝える。(構成は日経BP社デジタル編集部の内田泰)
慶応大学SDM研究科准教授・JSCハイパフォーマンス戦略部アドバイザーの神武直彦氏神武 AIの開発は、テクノロジー、そしてコンピューターを駆使して人間と同等の知能を実現する取り組みと言えます。例えば、素晴らしいコーチがいて、その人の代わりをするAIができれば多くの選手が優れた指導を受けられます。また、競技の審判に使えばミスジャッジを防げるかもしれません。
まず、スポーツ界でのAIの活用の現状について話をしていきたいと思います。久木留さん、JSCが競技力向上のための研究・支援を目的として開設したハイパフォーマンスセンターでは、既にAIを活用しているのですか。
久木留 具体的にAIをこう使うという計画は、まだありません。しかし、AIを活用するには、まずビッグデータの収集が必要で、そこはかなり進んでいます。ハイパフォーマンスセンターの売りは、五輪に出場するようなトップアスリートの拠点であることです。JSCの国立スポーツ科学センター(JISS)は2001年から選手のデータを蓄積していて、現在はセンサーを活用して各種のデータを取っています。
トップアスリートのビッグデータにアプローチしたいという、大学や企業はたくさんあります。一緒に組んだパートナーが開発したAIがトレーニングやコンディショニングの情報を提供する、というような提案は実際に来ています。
まだ具体的にお話できるものはないですが、AIの導入は、国内だけでなく海外も含めて外部のパートナーと連携して行うことになるでしょう。AIの専門家を多く抱える東京大学や大阪大学とは、連携協定を結んでいます。
日本スポーツ振興センターのハイパフォーマンス戦略部長・専修大学教授の久木留毅氏私はハイパフォーマンスセンターを、スポーツ界における「知の集積基地」だと言っています。トップアスリート、トップレベルのコーチがいて、アスリートの膨大なデータがある。20年以降は、ここで得た知見をスポーツ界だけでなく、地域や学校、病院にも還元できるようにしたいと考えています。
神武 スポーツ界に広く目を向けてみると、AIの活用はどの程度進んでいるのでしょうか。例えば、個々のジュニア選手のデータを集めて将来的に最も伸びそうな選手を見いだす、タレント発掘なども使えると思います。
久木留 タレント発掘に関しては、まだAIを活用し切れていないと思います。遺伝子情報の取得・分析などを含めてAIの活用はこれからです。一方で審判においては一部の競技で導入が本格的に検討されています。例えば16年に国際体操連盟の会長に就任した渡辺守成氏は、「AIを判定に導入して体操競技をより高いレベルにする」と公約しています。
■審査員が違反見落とすことも
神武 このようにAIが競技の判定に導入されると、技の採点基準などが変わってきますよね。
久木留 体操の場合は、五輪の開催周期に合わせて4年ごとに採点規則が改定されるので、そのタイミングでうまくAIを導入するということだと思います。
ただし、「今年の世界選手権からいきなり人間の審判がいなくなる」というような話ではなく、部分的にAIが判定するという使い方になるでしょう。「ミスをなくす」のが大きな目的です。
神武 AIを導入しやすいのは、競泳や陸上など対戦相手がおらず、自分たちのパフォーマンスを最大化すればいい競技だと思います。田中さん、シンクロはいかがでしょうか。
田中 私は国際水泳連盟のアスリート委員会の委員を務めています。数年前から競泳やシンクロを含む水泳全競技の各国アスリートの側から、「ルール違反をきちんと見てくれるAIが欲しい」という声は多くなっています。ただし、現状では話に出ているだけで実際の導入には至っていません。
例えばシンクロの場合、演技中にプールの底をちょっとでも蹴ってしまうと減点の対象となります。現状の審判の仕事はなくさず、こうした部分をきちんと判定してくれるアルバイトのようなAIがあったら、見えなかったルール違反を可視化でき、「不公平が軽減されるのに」という声がアスリートに多いです。
ソウル五輪シンクロ・デュエットの銅メダリストで現在は日本スポーツ心理学会認定メンタルトレーニング上級指導士の田中ウルヴェ京氏違反以外でも、シンクロ選手、特に過去のメダリストたちが、これまでの経験から審判の技術的な質の精度について意見し続けていることがあります。技術点の要素にある「難易度(Difficulty)」です。実際泳いでいる選手側からすれば最も高難度だと思う足技を、審判が分からないときがあるのです。
例えば、難しい角度で足をひねった状態で回転技みたいなことをやっているのに、審判が「ひねりを見られない」とか。実は、それは審判の質の問題なのです。
審判の中には、当然、高度な技を見たことがない人もいます。ロシアとか日本とか世界のトップレベルの国では問題がないのですが、5大陸に均等に国際審判がいるので、そういう人も実際にいます。
そんな時、「水中に本当に90度の角度で入ったか、92度ではなかったか」などを機械的に判定してくれるシステムがあればクリアになります。技術点(難易度、完遂度=execution、同調性=synchronization)については、AIの導入は近い将来「ある」と思っています。
■数値化しにくい芸術要素
少なくとも、AIを判定に導入すると聞いてうれしいのは基準化されることです。シンクロのルールでは、技術点が何かについては言語化されていますが、今のところ、採点は「審判の目での判断」ですから、数ミリ違うというような客観的な数値基準はありません。私は委員としてルール変更の場にもいますが、競技という側面を考えれば、数値化のような発展には肯定的です。
神武 テクノロジーを導入するときに重要なのは、その前段階で人間の暗黙知を形式知にしないとそのテクノロジーでは扱えないことが多く、きちんと定義しましょうという議論が起こる点です。そこで初めて、何を明確化しないといけないかが見えてくる。シンクロは今まさにそういう状況かと思います。一方、シンクロのような採点競技には「芸術点」もあります。芸術的要素は数値化できるのでしょうか。
田中 個人的にはスポーツを見ている人が何に感動するのか、アンケートを取りたいぐらいです。というのは、シンクロで審判が高い芸術点を出すのは、結局、主観に基づいて革新的な振り付けや、音楽の解釈に心を動かされた時です。じゃあ、感動って何か。そもそもどんなスポーツでも私たちが感動する時というのは、本当にきれいであっさりした演技やプレーではなく、「すごく苦労しているのが想像できる」「足が震えそうだが必死に耐えている」など、人間らしさが出た時ではないでしょうか。
体操でも演技の最後にぐっと顔を上げたりするのは規定にはないけれど、その動作は印象度として重要です。こうした「止める」動作はシンクロにもあるけど、数値化できない部分です。同様に、芸術点の「演技態度(Presentation)」や「曲想の解釈(Music Interpretation)」も数値化は困難です。
演技を失敗したとき、次にどうしたか、という点も印象面で大きいです。フィギュアスケートの浅田真央さんによるソチ五輪のフリーの演技について、なぜ多くの人が感動したと話すのか。それを数値化できるものでしょうか。
久木留 例えばですが、どういうシーンで観客の拍手が大きくなったか、どの時間帯でどういう演技をしたら観客がどう反応したか、などをデータとして蓄積して分析すればAIに落とし込めるかもしれません。
芸術的な要素ではないですが、日本スポーツアナリスト協会が昨年12月に開いたイベント「SAJ2016」では、女子バレーボール元日本代表の杉山祥子さんの「Cクイック」という速攻系スパイクを、AIを活用して後世に残していくという話が出ました。このようなスポーツ界のレジェンドの技は、いわゆる暗黙知で、数値化はされていません。
左から久木留毅氏、田中ウルヴェ京氏、神武直彦氏でも、トップアスリートの技はデータを取っていくと平均から外れた値になります。こうしたデータばかりを集めていけば、AI化は可能かもしれません。
五輪に出場するアスリートは「究極の存在」です。100m走で10秒を切れる人や棒高跳びで6mを超えるジャンプができる人はめったにいません。その人たちとAIをうまく結び付けることができれば、ジュニアの時代に「あなたはこういう練習をすれば、こういう能力を身につけられる」など、指導に役立つAIを作れるかもしれません。
■選手との交流、AIで円滑に
神武 データサイエンスの世界でいうと、データを「収集する」「処理する」「結果を伝える」の部分、つまりセンサーが良質なインプットをし、優れたアルゴリズムによって処理をし、適切なタイミングで選手にそれをアウトプットして伝えることができれば、日本ならではのスポーツAIができると思います。
久木留 選手の指導においては、コーチが直接話してもうまくいかないことがあります。そんな時、コーチが自分のことをインプットしたAIがあるといいですね。例えば、AIに対して「今、自分が選手に教えていいか」と聞くと「ちょっと待て」という答えが返ってくる。その場合は、選手がシャワールームにいるときに、目の前のディスプレーに映像が出てAIが選手に気づきを与える。そんな使い方があるかもしれません。
田中 それ、いいですね。自分と違う思考グセのAIを複数作っておけば、多様な考え方に基づいて選手を育成できそうです。「叱咤(しった)激励コーチ」「冷静沈着コーチ」とかを、状況によって使い分けたり……。
久木留 朝、選手がトレーニングセンターに到着した時、「いつもより早く来ているから今日は強度を上げて」とか、「遅く来て疲れていそうだから軽めで」など、選手のコンディションを判断してAIが練習メニューを調整してくれるといいですね。
神武 今、私が関係している大学のスポーツチームでは、食事、睡眠、フィジカルについてデータを記録・分析し、それによって練習メニューを変えています。このスポーツチームの場合、その大学にはほとんどスポーツ推薦枠がないので、いかにケガをさせないかも重要な点だからです。
現在はこうした選手管理をスペシャリストがやっていますが、その知見の継承は課題になっています。これをAIに落とし込んでより汎用化できれば、例えばジュニア選手の指導などにも応用できるかもしれず、そのような取り組みも進めています。
(次回に続く)
神武直彦
慶応大学SDM研究科准教授・JSCハイパフォーマンス戦略部アドバイザー。慶応大大学院理工学研究科修了後、宇宙開発事業団(現在の宇宙航空研究開発機構)入社。H-IIAロケットの研究開発と打ち上げ、人工衛星および宇宙ステーションに関する国際連携プロジェクトに従事。2009年度より慶応大准教授。2013年11月にSDM研究所スポーツシステムデザイン・マネジメントラボ設立・代表就任。2016年6月より日本スポーツ振興センターハイパフォーマンスセンター・ハイパフォーマンス戦略部マネージャー。2017年4月より日本スポーツ振興センター・ハイパフォーマンス戦略部アドバイザー。アジア工科大学院招へい准教授。博士(政策・メディア)。
久木留毅
日本スポーツ振興センター ハイパフォーマンス戦略部長、国立スポーツ科学センター副センター長/専修大学 教授。筑波大学大学院体育研究科修了(体育学修士)(スポーツ医学博士)、法政大学大学院政策科学専攻修了(政策科学修士)、英国ラフバラ大学客員研究員。日本レスリング協会特定理事、元ナショナルチームコーチ、テクニカルディレクター等を歴任。2015年10月1日より、文部科学省および経済産業省のクロスアポイント制度にて日本スポーツ振興センターに在籍出向中。
田中ウルヴェ京
日本スポーツ心理学会認定メンタルトレーニング上級指導士。IOC認定アスリートキャリアトレーナー。1988年にソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。10年間の日米仏の代表チームコーチ業とともに、6年半の米国大学院留学で修士取得。様々な大学で客員教授として教べんをとるかたわら、慶応大学大学院SDM研究科博士課程に在学中。アスリートからビジネスパーソンなど広く一般にメンタルトレーニングを指導するとともに、報道番組でレギュラーコメンテーターを務める。
[スポーツイノベイターズOnline 2017年4月19日付の記事を再構成]
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