作家・中沢けいさん 父母の語り、鮮明な記憶
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は作家の中沢けいさんだ。
――両親とも早くに亡くなったそうですね。
「父は私が11歳の1970年に、母は私が25歳だった85年にともに40歳代で亡くなりました。けれど両親はじめ祖父母や親戚とのくらしの記憶は、私の中で鮮明です」
「母は35年生まれで、作家なら大江健三郎さんと同じです。実家は横浜市金沢区の平潟湾の海岸に接した船宿で、6人兄弟の2番目で長女でした。白いエプロンをつけて、オルガンが上手な先生がいた幼稚園に通ったといいます」
「家の前は立派な松が生えた石垣があり、その先は海。母が4歳の時、海に転げ落ちたのを漁師さんに助けられ、大騒ぎになったのです。折しも隣の本家でおばあさんが危篤状態で、酸素吸入器を持った医師の往診を受けていた最中。おばあさんより子が大事と酸素吸入で蘇生し、おばあさんも自力で持ち直しました。家中安堵したそうです」
――それは中沢さんが生まれる前の家族の歴史ですね。
「母を助けた漁師さんがそのとき何と叫んだか、祖父の将棋友達だった寺の住職にどんな癖があったのか――。母は父の死後、生活のため始めた和裁をしながら、そんな話をよく私に語り聞かせました。このため今では伯母伯父より私の方が、戦前からの親戚の動静や、ご近所さんの人となりを詳しく知っていることがある。古い話を問い合わせられることもありますね。母からやはり長女の私へ、家族の歴史は長女から長女に伝わるものなのでしょう」
――父親とはどんな思い出がありますか。
「父は太平洋戦争中、横須賀の海軍基地の工員でした。戦後は船宿経営の傍ら社交ダンスを習って母と踊るなどモダンでもありました。そのころ私はピアノを習っていたのですが、家で母と踊りたい父に『早くワルツを弾けるようになれ』と言われたのを覚えています」
「そんな父は66年、船宿の支店を千葉県館山市に開くため、家族を連れて引っ越しました。よく言えばテレビドラマの『大草原の小さな家』のような暮らしですが、横浜育ちの一家にとって館山はカルチャーショックの連続でした。当時は漁師さんたちが、漁の後に裸で家まで歩いて帰るのが普通だったのですから。風が吹けば家の中は砂だらけ。でも母はそんなひどい体験まで、時間をかけてまるで面白い話に練り直してしまうのです。夜眠れないときなどに、皆で繰り返し話して、さらに面白い話になったのです」
「長女つながりの母との関係、話をどんどん面白くする母。その話を面白そうに聞く父。こうした父母のありようは、私が18歳で小説を書くようになったことに影響したと思います。少し先かもしれませんが、私たちのファミリーヒストリーを作品に生かせればとも思っています」
[日本経済新聞夕刊2017年5月2日付]
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