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「ガー」の後「ドン」 二重に聞こえた東京五輪の号砲 スタートのテクノロジー(3)北岡哲子 日本文理大学特任教授

日経テクノロジーオンライン

2017/5/15

野崎忠信氏は1964年の東京五輪でスターターの補助役員を務めた(写真は当時の通門証)
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 スタートに関して、1964年の東京五輪までとそれ以後で変わった技術がいくつかある。中でも、出場人数が増えたことによる公平性を保つ工夫は重要だと思う。この経緯について、明星大元教授の野崎忠信氏に取材した。

東京五輪でスターターの補助役員を務めた野崎氏。レーン数が6から8に増えたことで号砲到達の時間差が大きくなったという

 野崎氏は東京五輪では、「スターターの神様」と呼ばれた佐々木吉蔵氏とともに、「出発合図員(現在のスターター)」の補助役員を担当した。

 東京五輪以前は、トラックのレーン数は6レーン、すなわち1レース当たり競技者6人で競っていた。ところが、60年前後には競技者層が厚くなり、出場人数が増加したため、東京五輪からは8レーン、8人でレースを行うことになった(当時、入賞は6位までとされ、8位までになったのは84年のロサンゼルス五輪から)。写真判定によってフィニッシュ時点でのトラブルはほとんどなくなったが、スタート時点での問題が生じた。

 まず問題になったのは、スターターの立ち位置。レーンが6から8に増えたことで、スターターが見なければいけない視野が横に広がった。このため、競技者の不正の確認が難しくなった。

 特に200m走や4×100m走のように競技者のスタート位置に前後差がある場合、それまでは各競技者から等距離の位置に立って号砲を撃っていたのが、8レーンになると目視の範囲よりも広くなり、特に第1、第8レーンが見えにくくなる。この問題を解決しようとスターターの立ち位置を変えると、号砲の音が競技者に届くまでの時間差ができて、同じ瞬間に音が聞こえず公平性を保てなくなるという事態が生まれてしまう。

■号砲の時間差解消のためマイクを導入

 実際、400m走の場合で最もしっかりと見通せる位置を探ると、フィニッシュライン(1周400mのトラックの場合、1レーンのスタート位置がフィニッシュラインと一致)の10m後方で、7レーンの位置であることが分かった。これは200m走でも同様だ。

 しかし、この位置で号砲を撃つと、1レーンと8レーンでは音が聞こえる時間に差が生じる。実際、競技者のスタートはアウトレーンになるほど遅れ、階段状のスタートになることが見た目でも判別できた。

 ちょっと単純な計算をしてみる。100m走では1レーンと8レーンには約8mの距離差がある。音速を331.5m/秒とすると約0.023秒の差になる。200mでは27mほどの距離差があるため0.079秒、400m走では47mで0.137秒、4×400mリレーだと66mで0.192秒も音の伝達時間差がある。その分、もちろんスタートが遅れてしまう。世界で戦う場合は、まさに100分の1秒を争うわけなので、これは大問題である。

1周400mのトラックにおける、400m走のスタート位置。スターターとの距離は最大46.8mも異なる

 そこで東京五輪では、不公平さが大きい400m走、800m走、400mハードル、4×100mリレー、4×400mリレーに関しては、スターターの前にマイクロホンを立て、各競技者のレーンナンバーボックス中に内蔵したスピーカーから同時に音を響かせよう、ということになった。

 しかし試行してみると、号砲のドンという音がスピーカーでは「ガー」という音になってしまう。アウトコースでは、「ガー」の後に実際の号砲が遅れて「ドン」と2つの音が響くため、競技者はリコーラーの音(不正スタートなどによるやり直しの合図)と勘違いして、止まってしまうというアクシデントが発生した。冗談のような話だが、これを改善できる策も時間もなく、東京五輪はこの状況下で行われた。

 それでも、失敗もなくつつがなく競技を終えられたのは、常に各国の競技者の練習に立ち会い、説明をし続けたからだった。日本語の分からない海外の競技者に「位置について、用意」の掛け声を教えて回り、練習に立ち会って600回以上もピストルを撃ったという。400m走と4×100mリレーについては、「ドン」は2つの音のうち先にスピーカーから出る「ガー」であるから、「ガー」でスタート動作を起こすようにと、出発係を通して言い続けた。その結果、1人も取りこぼすことなく、競技を終了することができた。

■東京五輪の合図は「位置について、用意」

 スタート合図の言葉は、日本では前回説明したように、1929年から日本語の「位置について、用意」である。それ以前から国際競技会でのスタート合図は英語、フランス語、開催国のいずれかの言語とすることが義務付けられていたため、東京五輪では「位置について、用意」となった。

 2010年、規則改正により世界陸上、オリンピック、世界選手権、IAAFコンチネンタルカップ(旧・陸上ワールドカップ)は英語(あるいはフランス語)に統一された。「On your marks,Set(オン・ユア・マークス、セット)」だ。日本は現在、国際ルールに慣れるためこれを標準化しつつある(日本で行われる国際大会、日本陸連主催・共催の競技会は英語を使用している)。

 スタート音については、日本では東京五輪の後、佐々木氏が中心となって課題解決に当たり、ピストルに代わる電動連発式信号器を作製。1979年には正式の競技会で使用するようになった。世界の競技会では、日本より16年も遅れて95年の世界陸上が初採用だった。

 現在のスターターが持つピストルは、ピストルのような形をしているが、中身は信号用のスイッチにすぎない。音は紙雷管(少量の黒色火薬を紙で包んだ競技用火薬)で出していたが、レースの度に紙雷管を装着するのに大変な労力を要するので、やがて電子音で代替するようになり、2016年のリオデジャネイロ五輪でも電子音が使われた。

(次回に続く)

(日本文理大学特任教授 北岡哲子)

[日経テクノロジーオンライン2017年3月30日の記事を再構成]

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