エンタメ!

ビジュアル音楽堂

ピアニスト伊藤恵と作曲家(後編)シューマンとシューベルト

2017/4/8

 今や日本ピアノ界の大御所、伊藤恵さんが、敬愛する作曲家について語る。後編はシューベルト最晩年の三大ソナタの一つ、「ピアノソナタ第20番」を弾きながら、19世紀前半のロマン派の青春期を生きたシューマンとシューベルトに思いをはせる。

実際の夕日よりも素晴らしいファンタジーがある

 「ありえないような美しい世界。だんだんたそがれてきて、見えなかった星が少しずつ見えてくるような」。3月24日、東京・銀座のヤマハホールで開かれた「伊藤恵ピアノ・リサイタル」。都会の夕べに催した演奏会で最初に弾いたシューマンの「幻想小曲集 作品12」について、伊藤さんはこう語る。同曲集の1曲目「夕べ」では、アルペジオ(分散和音)ふうのまばらな音がいつ果てるともない穏やかな旋律を紡いでいく。「私たちは普段、日常生活の中で、夕日を見て涙が出ることがあると思う。音楽家はそういう瞬間を音にする。実際の夕日よりももっと素晴らしい、もっと崇高なものがある。誰もが持つそんなファンタジーに芸術は呼びかけてくれる」

シューマンとベートーベン、シューベルトの作品を弾いた伊藤恵さん(3月24日、東京・銀座のヤマハホールでの「伊藤恵ピアノ・リサイタル」)=(c)Ayumi Kakamu

 分散和音の一音一音を繊細に鳴らし、さりげない伴奏役のフレーズにも歌を宿らす演奏は、伊藤さんの一貫して変わらない特徴だ。ドイツ・オーストリア流の正統派の伝統をくむ演奏スタイルといわれるが、武骨で重厚な音がドイツ風だと言うのは偏見だろう。往年のヴィルヘルム・ケンプやクラウディオ・アラウ、ヴィルヘルム・バックハウス、それに伊藤さんが最も尊敬するアルフレート・ブレンデル氏らのCDを聴くと、ピアノが歌っている。ベートーベンからロマン派の作品では特に、バッハ以来の伝統形式を意識しつつも、そこからあふれ出しそうな自由な歌を随所に宿し、すごみもある。伊藤さんがオーストリアとドイツの大学で師事したハンス・ライグラフ氏はスウェーデン人だが、同氏と伊藤さんとの師弟の取り組みは「この世のものとは思えない素晴らしい響きを出すこと」に至ったという。

シューマン「クライスレリアーナ」を再録音

 恩師からの直伝はこの日のシューマン「幻想小曲集」でも反映していただろう。シューマンとの対話を楽しむようにピアノに向かい、作曲家の真意をくんでいく。日没のあかね色が大空に広がり移ろうような「夕べ」の音楽は、誰もが内面に持つファンタジーやロマンチックな感性に直接呼びかけるものがある。そしてこの「幻想小曲集」こそ、伊藤さんが1987年から2007年までの約20年間にわたって取り組んだシューマンのピアノ曲全集「シューマニアーナ」(CD全13枚)の最初のCDに収録した記念すべき曲なのである。

インタビューにこたえるピアニストの伊藤恵さん。聞き手は池上輝彦(3月23日、東京・銀座のヤマハホール)

 「以前はシューマンに憧れ、でもシューマンに憧れている時にはひそかにシューベルトへの思いがずっとあった」と伊藤さんは語る。シューベルトを語る前にどうしてもシューマンについて触れざるを得ないピアニストだ。幼少期からもう一人の恩師、有賀和子氏に教わったのがシューマンのピアノ曲だ。この日、伊藤さんの最新CD「ショパン/24の前奏曲、シューマン/クライスレリアーナ」(発売元:フォンテック)が演奏会場内だけで先行販売された。「クライスレリアーナ」は「幻想小曲集」とともに「シューマニアーナ」の最初のCDに収録され、しかも1曲目を飾ったまさに記念碑。2014年に27年ぶりにレコーディングされた演奏を収録し、4月5日に30年ぶりの再録音CDのリリースとなった。

 「クライスレリアーナ」はドイツロマン主義の作家ホフマンの小説「牡猫ムルの人生観」に登場する架空の音楽家クライスラーの名に由来するピアノ曲集。のちの妻になるピアニスト、クララにささげる詩的でロマンチックな曲想に満ちた傑作だ。クララの父、ヴィークにクララとの結婚を反対され、苦しんでいた時期に作曲された。父ヴィークの機嫌を案じたクララの意向を考慮し、当初クララに献呈されるはずだったこの作品は、実際にはショパンに献呈されたという経緯がある。音楽評論家でもあったシューマンは、自ら編集を担当した雑誌「音楽新報」でショパンの音楽を高く評価する文章を書いていた。伊藤さんはかつて「ショパンは男の滅びの美学」と語り、女性ピアニストとして共感しアプローチする難しさを指摘したことがあった。最新CDは彼女にとって初録音のショパンの「24の前奏曲」を併録し、「クライスレリアーナ」が取り持つシューマンとショパンの関係を聴かせる意味でも興味深い。

ショパンとシューマンがつながる演奏

 「クライスレリアーナ」を新旧録音で聴き比べると、1987年に出た「シューマニアーナ1」(発売元:フォンテック)では、すさまじい速さで3連符続きの1曲目を弾いている。だが勢いに任せて弾き飛ばす演奏とは全く異なり、細部の一音一音を克明に鳴り響かせている。微細で切れのある3連符の奔流の中から、途方もなく大きなファンタジーが上昇して湧き起こってくる。これに対し最新CDでは、全体に遅めのテンポで各曲の構造を浮き彫りにしながら、青く揺らめく美しい水底へと下降していく感覚だ。どちらも立体的な彫の深さがある演奏だが、新録音では手堅い構成感と奔放なロマン性との拮抗が際立つ。ピアノは1987年に録音した時にはスタインウェイだったが、今回は伊ファツィオーリを使った。明るく柔らかい音色のファツィオーリを遅めのテンポで歌わせようという意図も感じられる。

4月5日発売の伊藤恵さんの最新CD「ショパン/24の前奏曲、シューマン/クライスレリアーナ」(左)と1987年発売の「シューマニアーナ1」(いずれも発売元:フォンテック)

 最新CDはショパンの「24の前奏曲」に続けてシューマンの「クライスレリアーナ」を収録し、同年代の2人の作品に新たな光を当てている。ショパンはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に倣って長・短調合わせて全24調性をそれぞれ使った24曲から成る前奏曲集を書いた。フランスの女性作家ジョルジュ・サンドとともに移住した地中海のマヨルカ島で作曲された。ロマン派と目されながら、バッハを尊敬し西洋音楽の伝統形式を重視したショパン。シューマンとは正反対に、文学性や標題を嫌った「絶対音楽」の作曲家だった。しかし伊藤さんの「前奏曲」の演奏は、曲集全体の骨組みをしっかり捉えた上で、そこに過剰ともいえる情感を盛り込み、海辺に寄せては返す波のような起伏のあるドラマを繰り広げる。そこには例えば、古代ギリシャの恋愛物語「ダフニスとクロエ」の本歌取りともいえる、古典主義の形式美とロマン主義を融合させた三島由紀夫の小説「潮騒」のような文学性も漂う。

 この最新CDで聴き手は、続く「クライスレリアーナ」へと自然に引き込まれていく。「24の前奏曲」の終曲と「クライスレリアーナ」の第1曲が同じニ短調で親和性が高く、継続感があるからだ。「クライスレリアーナ」で使われるニ短調、変ロ長調、ト短調、ハ短調の調性は「24の前奏曲」終盤の第20~24曲の間にすべて登場する。第23曲はヘ長調だが、これもニ短調と同じ音を使う平行調であり、関連性を持つ。ともに変ロ長調の「24の前奏曲 第21曲」と「クライスレリアーナ 第2曲」が相通じ合う穏やかな曲想を持つことにも改めて気付かされる。シューマンとショパンのエール交換みたいだ。伊藤さんの最新CDは、2つの作品がそれぞれ隠し持っていた物語性と構造性を補完し合うような感覚を生み出ている。

シューベルト独自の歌の世界をピアノで実現

 「シューマンの憧れは私自身の憧れ。個人的なことをシューマンと会話しながら、彼の理想の世界、あの優しさに満ちた世界に行ける気がする」と伊藤さんは語る。さらに「シューマンやシューベルトの音楽は私たち一人ひとりの個人的な喜び、希望、絶望、孤独に寄り添っていく」と個人の感情を重視したロマン派の本質を指摘する。そこでいよいよシューベルトだ。3月24日のヤマハホールでのリサイタル後半はシューベルトの「ピアノソナタ第20番」。彼が31歳で亡くなる2カ月前に書かれた三大ソナタ(第19~21番)の一つだ。本稿の映像では本公演前日の3月23日、同ホールのリハーサルで「第20番」の第4楽章を弾く伊藤さんの姿を捉えている。歌曲王シューベルトの面目躍如といえる美しいメロディーを、優しく繊細に弾いている。

伊藤恵さんのCD「シューベルト:ピアノ作品集6」(左)と「ピアノソナタ第20番」を収めた「シューベルト:ピアノ作品集2」(いずれも発売元:フォンテック)

 「シューベルトは悲しいほど優しい」。ベートーベンの「第九」こと「交響曲第9番」の「歓喜の歌」にどことなく似ている「第20番」第4楽章のメロディー。「ピアノソナタ第4番」にも使われるなど、シューベルトの愛着のほどが感じられる旋律だ。「シューベルトはベートーベンを尊敬し、ピアノソナタや交響曲を書いた」とベートーベンに通じる器楽的な面を指摘する。「ピアノソナタ第20番」には「後々のブルックナー、マーラーの交響曲に通じる世界」もあるという。全4楽章の長大な構成、大胆な転調や間の取り方などにブルックナーら後期ロマン派の交響曲の先取りがうかがえる。だが伊藤さんは「シューベルトはやっぱり歌の人。『僕はさようならをするけれど、君たちは幸せになってね』っていう希望を残してくれるような、胸を打つ音楽」と語り、ピアノ曲でもシューベルト独自の歌の世界が大切であることを強調する。

 シューベルトには「孤独や死が常にあの若さで自分の世界の中にあった。だからもう笑っていても悲しみしかなかったと思う」。伊藤さんは欧州留学中の1978年、ブレンデル氏が弾くシューベルト最晩年の三大ソナタを聴いた。ブレンデル氏の「孤独や絶望、死、地獄の表現」に衝撃を受けた。「上手に弾くだけのピアニストとは次元が違う」と実感し、その後しばらくシューベルト作品の演奏を封印した。シューマンの全集録音を経て2008年からようやくシューベルト作品の演奏と録音に本格的に取り組み始めた。シューマンから遡って、日本を代表するシューベルト弾きとなった伊藤さん。さらに今はシューベルトからも遡り、ロマン派の源流にいるベートーベンに向き合おうとしている。

(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)

エンタメ!新着記事

ALL CHANNEL