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私の履歴書復刻版

安宅合併頼み伊藤忠に日参 眠れぬ夜過ごす 元アサヒビール社長 樋口広太郎(21)

2017/4/6

「スーパードライ」の発売でアサヒビールを業界トップに押し上げた名物経営者、樋口広太郎氏(ひぐち・ひろたろう、1926-2012)の「私の履歴書復刻版」。日本の商社全体の信用維持――安宅産業の経営危機を収拾できたのは関係者のそんな思いがあればこそでした。住銀時代の眠れぬ夜を過ごした日々を回想します。

根回し 合併頼み伊藤忠日参 美術館建設費工面で一計

1976年(昭和51年)、安宅産業問題を担当して関係者との交渉に歩いた時の記憶はいまも生々しくよみがえります。伊藤忠は安宅をよく吸収合併してくれたと思います。最初、副社長の瀬島龍三さんは「樋口さん、3年前から他社を吸収しているのでいまは部分合併しかできない。一応検討します」と、やんわり断られました。どうすれば合併してもらえるのか、何度も通いました。

それまでに安宅の大口仕入先、販売先への根回しが欠かせませんでした。安宅は官営八幡製鉄所の時代から新日本製鉄の指定商社として発展した会社です。鉄の商権をそのまま円滑に移すことが、伊藤忠を説得する際の重要なポイントでした。しかし伊藤忠の鉄鋼部門は川崎製鉄の製品が主体です。川鉄とライバル関係にある新日鉄が伊藤忠への商権の移動に難色を示すことは当然予想されました。

実際、新日鉄の副社長、田坂輝敬さん(76年6月社長に昇格)は当初「かなり難しい」と言っておられました。しかし最終的には「皆といっぺん相談してみましょう」と言ってくださいました。基本的に了解してくれたわけです。

こうした交渉の過程で寝つきのいい私もさすがに眠れぬ夜を過ごしました。毎晩、新聞記者も大勢、家に取材にやって来ました。帰るのはいつも夜中過ぎですが、私は毎朝早く出勤しなければなりません。衆人環視の中での合併交渉の難しさをつくづく感じました。

この合併は何と言っても、戸崎伊藤忠社長の英断が無ければまとまらなかったでしょう。日本の商社全体の信用維持を考えて決断してくださったのだと思います。私はいまでも戸崎さんに感謝しています。

合併の方向が固まっても、不良債権を各銀行でどう分担するかという難問が残っていました。この調整もとても難航しました。ある銀行の役員は「メーンバンクが負担するのが当たり前じゃないか。こんなもの、できるか」と渡した書類を投げ返してきました。それが私に当たり、ムッとしましたがじっと我慢しました。けんかをしても損ですからね。何事も修業です。その後、伊部頭取と協和銀行の色部頭取が各銀行首脳とひざを交えて打ち合わせて、大綱をまとめました。一方、住友銀行の小松康専務(後に頭取)が安宅の社長に出向して、安宅の業務整理を行い、関係銀行と協調して合併に向けて地ならしを進めました。

安宅産業でもう一つ忘れられないのは、有名な美術コレクションの処分です。朝鮮、中国などの陶磁器約1000点と、速水御舟を中心とする100点ほどの日本画からなる貴重なコレクションです。安宅産業がなぜ、これほど大量に優れた美術品を所有していたのかと言いますと、創業者、安宅弥吉氏の長男の英一氏が会社に美術部を設けて執念を燃やして収集したからです。英一氏は元会長で、当時は社賓と呼ばれ、幹部の人事などに隠然たる力を持つ存在でしたが、美術品の収集家でもあったのです。その英一氏を絵と陶磁器の世界に導いたのは日本経済新聞社長の円城寺次郎さんでした。円城寺さんはご存知の通り美術に造詣の深い方で、収集についてもだいぶ助言されたそうです。

速水御舟は昭和初期に40歳で亡くなった天才画家で高く評価されていましたが、作品が人目に触れる機会はあまりありませんでした。安宅がいい作品をたくさん買い集めて保管していたためです。炎の上に蛾が舞う図柄の幻想的な「炎舞」をはじめ、すばらしいものが倉庫に眠っていました。

これを、当時山種証券社長の山崎富治さんに私が直接お願いして山種美術館に買っていただきました。76年6月のことです。山崎さんのお陰でこれらの逸品がバラバラにならずに済み、大変良かったと思います。その年10月に開かれた特別展は大きな反響を呼びました。

住友グループは安宅コレクションの目録を大島靖大阪市長(左端)に贈呈した

東洋陶磁器は、これらをばらして売ると、総額は47億円と見積もられました。当時の相場に比べてあまりに低い金額でしたね。文化庁からは散逸させないようにという要望が銀行宛てに出され、その行方に社会的な関心が集まりました。そうこうしているうちに、住友グループで買い取って無償で寄付しようという話になったのです。

さてどこでどのように展示するのかという話が問題になり、紆余曲折がありましたが当時の大島靖市長が中之島の土地を提供すると決断してくださって決着しました。しかし建物まで建設する予算は市にありませんでした。そこで私が一計を案じました。コレクション全体を150億円と再評価して、住友グループが買い取り、そのおカネを住友信託銀行などに運用してもらって、その利息で美術館の建設費をまかなったのです。大島市長からは、美術館に「住友」の名を入れてはどうかとの話もありましたが、住友の名は入れず、「大阪市立東洋陶磁美術館」として82年11月に誕生しました。

私は美術館が完成するまで倉庫のカギを預かり、時々見せてもらいました。とても素晴らしいものだと思いました。朝鮮の陶磁器はずば抜けていました。直接、自分の手で触りたかったのですが、もし壊したら大変なので、触れたことはありませんでした。

この連載は、2001年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および新聞連載に加筆して出版された本「樋口廣太郎 わが経営と人生 ―私の履歴書―」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2013年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。

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