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1964年惨敗バネに 五輪競泳復活かけOBら民間教室

2017/3/9 日本経済新聞 朝刊

 日本人の記憶にある1964年東京五輪の名場面に競泳はない。60年ローマまで日本が競泳で獲得した五輪金メダルは11個。戦後の日本人を勇気づけた古橋広之進の記憶も新しく、東京五輪でも期待された。だが、メダルは銅1つだけと惨敗した。その屈辱から「競泳ニッポン」、そしてスポーツクラブは生まれた。

1970年セントラルスポーツが開業した(セントラルスポーツ提供)

 50年代に入ると欧米では温水プールが普及、幼少期から1年中泳ぐことができた。一方、日本には58年アジア大会のために造られた東京・千駄ケ谷の屋内プールくらいしかなく、基本的に競泳は夏のスポーツだった。東京五輪ではそんな彼我の差を見せつけられた。

 「水泳から逃げたかった」。東京五輪の苦い記憶を振り返るのは400メートルリレー4位だった後藤忠治さん(75)。体操で金メダル5個の小野喬氏らと共にセントラルスポーツを創業した。現在は会長だ。

 「指導者層のショックはもっと大きく、次代の選手を育てようと子供に教え始めた」。後藤さんの恩師で競泳ヘッドコーチを務めた村上勝芳さんもその一人。代々木プールに遊びに来た子供たちに「親切なおじさん」として教えた。「その正体を知った親たちが贈り物を始めたから月謝制にした。これが代々木スイミングクラブ」と後藤さん。

最近の後藤氏=写真左。体操金メダルの小野喬氏(左)らと話す後藤氏(中)=写真右

 多摩川、広島のフジタドルフィン、大阪の山田……。五輪翌年の65年、代々木以外にも日本各地でスイミングクラブが産声を上げた。「選手だった僕がやらなきゃ」と後藤さんは会社を退職。365日泳げる室内プールを造ってくれる人探しから始めた。屋外プールを持つ2つの学校が屋根を設置してくれ、70年にセントラルを開業した。

 もう一つ、屋根の設置に応じてくれたのが千葉の谷津遊園プールを持つ京成電鉄だった。「企業らしく採算を求められ、最低でも会員を600人集めろと言われた」。まだスポーツを仕事にすることがためらわれた時代、ビジネスを意識するきっかけになった。事業は順調に拡大したが、稼ぐというより「コーチを食わせるためだった。コーチが食っていけないようじゃ、選手もやめてしまう」。

喜びを体いっぱいに表す鈴木大地選手

 強い選手ほど指導時間は長く、コーチ一人が指導できる選手の数は少なくなる。経済効率は悪い。手弁当の苦労話は美談にはなるが、後藤さんは歓迎しない。「個人に依存すると長続きしない。腰を据えて強い選手を出すため、企業として経営を成り立たせたかった」。祖業の水泳・体操教室を全国各地に拡大、フィットネスクラブも併設して全体の規模を大きくし、選手育成を支えていった。この方式はNAS、ルネサンス、コナミなども受け継ぐ。

 80年代に入ると日本代表の大半がスクール出身になり、純スクール育ちの金メダル第1号がセントラルから誕生した。88年ソウル五輪の鈴木大地現スポーツ庁長官だ。当時は順大生だが、練習拠点はセントラルだった。「スクールはスポーツを食い物にしているという批判が残る中で、大地のインパクトは絶大だった」とソウル五輪競泳ヘッドコーチを務めた青木剛・日本水泳連盟会長は話す。

 トップ選手が出ないと「選手育成は無駄」という出資者の声が出ることもある。「夢を追いかけるところから事業は始まった。ご理解下さい、と。今は『ノー』という声はないです」と後藤さん。そのスピリットを水泳以外にいかに広げるかが20年以降の使命だ。

[日本経済新聞2017年3月9日付朝刊]

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