2020年東京五輪・パラリンピックとその後の時代「post2020」に日本は高齢者や障害者も優しく包み込む共生社会を実現できているのか。シニアマーケットコンサルタントの堀内裕子氏は自らの体験を踏まえ、社会的な弱者に配慮し、すべての人が利用しやすい設計にする「ユニバーサルデザイン」を重視した社会的なインフラ整備が必要だと語る。(聞き手は公認会計士・心理カウンセラー 藤田耕司)
藤田 老年学の研究成果を企業のマーケティング戦略に活用するユニークな挑戦はどんな経緯で始まったのでしょうか。
堀内 私は生まれつき体が弱く、骨折、じん帯断裂、アキレスけん断裂、膝蓋骨(しつがいこつ=膝の皿)の脱臼や亜脱臼、椎間板ヘルニアなどを繰り返してきました。外出先で膝蓋骨脱臼になったときは、その場から一歩も動けず、通りがかりの人に助けを求めたこともあります。じん帯やアキレスけんを切ったときは、いつもなら数分で行ける最寄り駅が地球の裏側ほどに遠く感じます。ちょっとした段差もつらく、上りのエスカレーターはあっても、下りのエスカレーターがないときは階段を下りるのに一苦労です。でも、そんなときに階段の手すりやスロープはとてもありがたいと感じます。
藤田 こうした感覚は高齢者も持っていると思います。
堀内 人が人に何かを頼むときには「頼む人」と「頼まれる人」が存在します。無料であっても有料であっても、相手が家族であってもそうでなくても、頼む側は弱者としての立場。もちろん頼んだ相手に感謝はしますが、それが続くと自分が情けなく、悲しくなります。これまで何度も惨めな思いをしました。そんな経験から私のような弱者が「お願いします」「すみません」と言わなくても済むような社会をつくりたいと心に決めたのです。
藤田 それは何歳のときですか。
堀内 31歳でした。このころ医者から「あなたの左ひざは60歳で使えなくなる」と言われました。これをきっかけにシニアの人たちの苦労が自らの身に差し迫って感じられるようになりました。シニアに強い関心を持つようになり、シニアマーケットのコンサルタントを目指すようになりました。
藤田 そのために具体的にどんな行動をしたのですか。
堀内 当時、勤めていた会社を辞め、要介護者向けの住宅改修を専門に扱う1級建築士事務所に入りました。がむしゃらに建築を学びながら、多くのシニアの方に会いました。実際にシニアが感じていること、思っていること、つらいこと、苦しいことを聞き、それを受け止めて住宅改修プランを立て、図面をひき、工事現場に立ち会っていました。
藤田 高齢者の生の声を聞く機会になったのですね。
堀内 ただ、そうやってシニアについての理解を深めれば深めるほど建築だけでは満足できず、もっと幅広い見地からシニアについて学びたくなりました。それでシニアマーケット専門のコンサルティング会社に転職しました。ここでコンサルタントとしてのスキルや思考方法を徹底的にたたき込まれました。建築だけでなく、衣料、寝具、食品、GMS(総合スーパー)、インテリア、自動車など幅広い分野からシニアに関する案件に携わることができたので、非常に貴重な財産になりました。
藤田 その後、40歳のときに桜美林大学大学院の老年学の修士課程に進みますね。貴重なことを学べたコンサル会社を辞め、大学院で学ぶことにしたのはなぜですか。
堀内 確かに、その会社では多くのことを学ぶことができましたが、実際の仕事はシニアのことを理解しているかどうかにかかわらず、有名大学出身のコンサルタントや大手コンサル出身のコンサルタントに割り振られました。当時の私の学歴は短大卒。これといった肩書もありませんでした。自分の能力や価値を外部に向けて表現するすべもなく、なかなか仕事を回してもらえませんでした。