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桜田門外の変 井伊直弼ゆかりの彦根を行く

滋賀県の彦根城

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NIKKEI STYLE

今年は「大政奉還」から150年。その幕末・維新の幕開けとなったのが「桜田門外の変」だ。1860年(安政7年)3月3日、日米修好通商条約を結んだ徳川幕府の大老、井伊直弼が江戸城外で暗殺された。井伊直弼には強権的な手法への批判が多いものの、日本の開国・近代化へ道を開いたとの声もある。最新の井伊直弼像を求めて。ゆかりの地、滋賀・彦根をまず訪ねた。

司馬遼太郎も感動した彦根城

作家の司馬遼太郎はベストセラー紀行「街道をゆく」の中で滋賀県を2回巡り歩き「私はどうにも近江が好きである」「近江路は春がいい」と語っている。特に2回目の「近江散歩」の章では彦根に一泊し、ホテルから彦根城の天守閣を眺め「ときめくほどに感動した」という。

彦根城は国宝5天守のひとつで、徳川四天王に数えられる初代藩主・井伊直政の銅像が建つJR彦根駅から大通りを歩いて15分と近い。中山道と北国街道が合流する要衝のエリアに建てられ、今年で築城410年。優美な天守閣などは創建当時そのままに残っていてこの城ならではのみどころが多い。

ただ井伊藩は「西国大名の抑え」という使命を幕府から担っており、彦根城も「戦う城」という趣だ。彦根城も近づいてからが案外進みにくい。左右に曲がり、内堀伝いに進まないと表門橋にたどり着けない。入ってすぐには「彦根城博物館」が建っている。

井伊家代々の宝物がほぼ完璧に近い形で保存されており、大名文化の粋を楽しむことができる。お薦めは有名な「井伊の赤備え」の甲冑(かっちゅう)や徳川時代の超精密画、国宝「彦根屏風」だ。

本丸・天守閣まで向かう坂道の途中にあるのが左右の櫓(やぐら)に橋をかけた「天秤(てんびん)櫓」だ。前後の道筋が複雑に込み入っている上、敵兵が攻めてくれば橋を落として食い止める仕掛けで彦根城でしか見られない防衛施設だ。さらに山の斜面に沿って石垣を築いた「上り石垣」も敵兵の進撃を妨げるもので、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」のときに朝鮮半島で用いられたという。射撃のための鉄砲狭間なども見逃せない。

一方、天守閣は高さ約21メートルと姫路城などに比べ小型だが破風(はふ)を多く採用したり、独特の「華頭窓」を設けたりして華麗さをアピールしている。司馬遼太郎は「武威を誇るというより湖畔にあって雅(みや)びを感じさせるやさしさを持っている」と書き記している。彦根城は近隣の石田三成の佐和山城や長浜城、大津城などの資材を再利用して築城した。これも司馬遼太郎は「近江建築の理想的な結晶体といえなくはない」という。

井伊家当主が市長を36年間

彦根市は3月中旬から12月まで「彦根城築城410年祭」を開催する。第1弾として城内の各櫓の内部を公開して特別展などが始まる。彦根城は徳川時代から一貫して井伊藩が本拠地とした城だ。戦後になっても井伊家当主が36年間市長を務めたなど、武士文化が今も濃厚に漂っている土地柄だ。

彦根が戦力的に重要な拠点であったことは幕末に「彦根遷都」論が何度か取りざたされたことでもわかる。もともと京都は外からの攻撃に弱い。幕府と西国大名らとの意見対立が深まるにつれ、思い切って天皇や有力公家を井伊家の本拠地に移ってもらい、主導権を握ろうという狙いだ。背景にあるのは琵琶湖を通じての交通の便のよさや文化的水準の高さなどだろう。

井伊直弼の彦根時代を知るのに見逃せない場所がある。藩の世継ぎに決定するまで17歳から32歳まで住んでいた城下の「埋木舎(うもれぎのや)」だ。藩主の子どもに生まれたものの14男という立場では将来の見通しが立たない。

「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」という和歌が残っている。ただここで直弼は茶道、居合、禅を学びそれぞれ一流の域に達した。特に茶道は今日では代表的な大名茶人に数えられている。まれに見る秀才なのだ。

直弼がその庭を愛したという天寧寺には供養塔が立っている。桜田門外の変の後、直弼の血が染み込んだ現場の土を持ち帰り最期の衣装などともに供養したという。

井伊直弼、襲撃計画を知っていた?

桜田門外の変の前日、直弼は襲撃の計画があるのを知っていたとのエピソードが残っている。それでも登城の予定を変えず午前9時頃に藩邸(現在の憲政記念館あたり)から雪の中を出発した。同9時過ぎに桜田門の橋にかかる手前で、攘夷(じょうい)派の水戸浪士を中心とした18人が拳銃の音を合図に斬りかかった。最初の一発が偶然直弼に命中し、襲撃時間そのものは数分間だったともいう。直弼の墓は井伊家の菩提寺、豪徳寺にある。彦根城のマスコットキャラクター「ひこにゃん」のモデルとなった招き猫伝説発祥の地だ。

朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約(1858年)に調印し安政の大獄(同)を断行した直弼には「独裁」「非情」のイメージが強い。しかし彦根城博物館の渡辺恒一学芸史料課長は「最近の研究では意外に合議制重視だったことが分かってきている」という。老中らとの議論に時間を費やす一方、条約調印前に諸大名への説明を省略したことを後悔し大老辞職を考えるなど専制イメージとはほど遠い。

母利美和・京都女子大教授は「井伊直弼の開国派と水戸斉昭ら攘夷派で意見が180度違ったわけではない」と分析する。アヘン戦争の経緯など当時の海外情勢は幕府が掌握していた。鎖国を維持できないのは共通の認識だったとしている。井伊藩は独自の情報網も持っていたという。

その後の明治維新政府の方針と直弼がかつて描いた外交構想とは案外似通っている。一坂太郎・荻博物館特別学芸員は安政の大獄で刑死した吉田松陰も以前は直弼を理想的な大名として高く評価していたと指摘する。「直弼にも国力をつけて可能になれば将来的には再鎖国の狙いもあった」(母利教授)。

しかし、日米間の国力の差を冷静にとらえて反米感情を押し殺し、現実の外交方針を誤らなかったのが大老としての井伊直弼だった。彦根市と並んで横浜市にも直弼の銅像がある。横浜開港の功労者としてだ。その直弼像は太平洋側を見つめている。

(松本治人)

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