働き方・学び方

私の履歴書復刻版

学生運動もカトリック活動も アサヒ樋口氏の京大時代 元アサヒビール社長 樋口広太郎(15)

2017/3/16

 「スーパードライ」の発売でアサヒビールを業界トップに押し上げた名物経営者、樋口広太郎氏(ひぐち・ひろたろう、1926-2012)の「私の履歴書復刻版」。戦後混乱期の京大時代も樋口氏はめまぐるしく動きます。学生運動、カトリック学生の組織化、青年団、弁論部……。道を踏み外すことがなかった陰には、いつも父の姿がありました。

学生運動 内部抗争嫌気、身引く カトリック入信、弁論も力

 私が京都大学に入学した1946年(昭和21年)は、戦後の混乱がまだ続いていました。大学も今とは全く違う雰囲気でした。「学生」と一口に言っても、いろいろな人間がいて、ごった煮でしたね。

京大時代の筆者

 私のように、高商を出ていったん仕事を経験してから来た者は、その中の一つに過ぎませんでした。陸軍士官学校や海軍兵学校といった軍関係の学校が廃校になったため、そこから来た者もかなりいました。元将校のおっさんのような学生も一緒でした。そういうのが、みんなでわいわいやっているうちに、大学に対する批判も自然に盛り上がりました。

 大学はなっとらん、われわれの学費はどう使われているのか、といった学内での公開討論が盛んに行われていました。私も自然にその輪に加わり、自治会である同学会の中央委員や委員長代理などをやるようになっていきました。いわば、学生運動の走りですね。

 後に総長になる滝川幸辰教授の超ワンマンぶりが、血気盛んな学生たちの怒りに火をつけました。学生に対して強硬な姿勢で、われわれ同学会が出す要求にけんもほろろでした。滝川教授は戦前、著作が国体に反するなどとして大学を追われた人で、世に言う滝川事件で知られた刑法学者です。学問の自由を侵す政治権力の横暴による犠牲者のように思われていましたが、学生には問答無用でした。大学のあり方を問う公開討論の席で、「大学には総長を中心として教授会があり、君らはその下を通り過ぎていくだけにすぎない」と言い放つ有様です。この言葉に学生たちは憤りました。

 当時はマルクス主義が盛んで、私が所属した経済学部では、会計学の講義が資本論の第1ぺージから始まったほどです。これには驚きました。京大には特にマルキストが多かった。私は全日本学生自治会総連合、つまり全学連の前身の一つに当たる学生会議の議長をやりましたから、マルキストとも付き合いがありましたが、マルクス主義には傾倒しませんでした。私が目指したのはあくまで学生のための学生運動でした。

 運動にのめり込み、デモの先頭に立ったこともありますが、学生なのに中には日本刀を振り回す暴れん坊もいました。やがて、お定まりの分派活動も盛んになり、内部抗争も激しくなって、私は次第に懐疑的になっていきました。

 そんなある日、いつものように学生運動で遅くなり、夜中の2時過ぎに大学を出ると、年格好が父に似ている人が自転車で道路の反対側を行くのが目に入りました。それまで気がつかなかったのですが、友達が「あの人はいつも門の所にいて、僕らが帰るのを見届けてから帰っていく」と教えてくれました。

 家に帰ると、父はいま寝たばかりという感じでした。何も言わないが、随分心配をかけているんだな。一人息子なのに、これはいけないなと反省させられました。それをきっかけに学生運動から離れました。

 それで初めから勉強をやり直すことにしました。いまの近代的なものの考え方の源流はギリシャ哲学だろうと考えて、アルバイトで稼いだおカネで古本を買い込んで勉強しました。そのうち、キリスト教を知らなければヨーロッパを理解できないと思って、キリスト教関係の思想史に関する本を読み始めました。

 さらに、人に話を聞いた方が早いと教会を訪ねているうちに、カトリックの信仰に目覚めたのです。今度はカトリックの学生の統一で頑張ろうと、京都に3000人近い学生を集めて、カトリック学生連盟の全国大会を開きました。

 私は気が多くて、いろいろなことをやる癖はどうも昔からのようです。同時に京都の青年団活動もやり、団長をしました。元首相の竹下登さんが島根県で青年団の団長をやっておられたころです。その時、政治家になる道も実はあったのです。当時の私は京大弁論部のキャプテンもやっていまして、新聞社主催の全国学生弁論大会に出て優勝したことがあるんです。3人のチームで出て、決められたテーマについて賛成、反対に分かれて討論する、いまで言うディベートですね。

 初代キャプテンは社会党の水谷長三郎さんで、「僕の秘書になって、いずれ京都から選挙に出て政治家にならないか」と声をかけてもらいました。私も、少し心が動いたのですが、主義に共感していたわけでもないので、結局、断りました。

 大学時代にいろいろな経験をしましたが、卒業後の進路は、やはり普通の企業への就職を考えました。偶然なのですが、大阪・中之島の本屋に入って、会社録をパッとめくったら住友銀行のページが開いたのです。読むと役員に京大出身者が多く、給料も高いんです。考えてみれば、物の動きの裏には必ずカネの動きがあります。経済全体を見るには金融も面白そうだ。よし住友銀行も受けてみようと思ったのが、その後の私の人生を決めました。

 思い返せば、もう一つ理由があったようです。父が「小売商の布団屋はこれからはなかなか難しい。京都四条河原町の角にある住友銀行の支店に用があって行ったら、支店長さんが真ん中に座っていた。あの支店長席に、お前が座れるようになったらいいな」と何気なしにもらした言葉が耳に残っていました。それが私の背中をぽんと押したような気がします。

 この連載は、2001年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および新聞連載に加筆して出版された本「樋口廣太郎 わが経営と人生 ―私の履歴書―」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2013年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。

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