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私の履歴書復刻版

変なあだ名が~浅草のランドマーク誕生秘話 元アサヒビール社長 樋口広太郎(10)

2017/2/27

「スーパードライ」の発売でアサヒビールを業界トップに押し上げた名物経営者、樋口広太郎氏(ひぐち・ひろたろう、1926-2012)の「私の履歴書復刻版」。第10回は「奇跡の復活」を遂げた後、過去としっかり向き合う話です。リストラした社員を呼び戻し、先人たちを顕彰する碑を建立した思いとは? すっかり浅草の名物になったあのビル誕生の秘話も語ります。

先人の碑 解雇社員を呼び戻す 物故者まつり労苦に感謝

「コク・キレ」ビールに続いて「スーパードライ」が爆発的にヒットして、会社は見違えるようによくなりました。マスコミからは「奇跡の復活」などと持てはやされ、アサヒビールの企業イメージはがらりと変わりました。しかし私には、ずっと気になっていたことがありました。

それは、私が入る5年前の1981年に、当時3000人いた社員のうち500人に肩たたきをして辞めてもらったという一件です。ある専務は「自分の人生で何が悔やまれるかと言えば、あの人員整理だ。おかげで私はこうして会社に残っているが、慙愧(ざんき)に堪えない」と言っていました。経営上やむを得なかったとはいえ、同じ釜の飯を食った人たちを不幸にしていいわけがありません。

これを放置したままでは、会社は本当の再スタートを切ったことにはならない。そこで私は、あの時辞めていった方々に復職を積極的に呼びかけることにしたのです。しかし、私の提案に対して、取締役会も組合も最初は消極的でした。「割増退職金を払って辞めてもらったのだから、いまさら呼び戻すことはない」という意見。あるいは「会社に文句ばかり言っていた人もいる」と言う人もいました。ですが、そんなサラリーマンはどこにでもいます。

社内を説得して、退職した人を呼び戻すことにした私は、元社員をそれぞれ訪ねてお詫びをしたうえで、「また一緒にアサヒビールで働きませんか」と申し入れました。皆さん、さまざまな思いを抱いていますから、反応は人それぞれでした。訪ねた先で面罵されたこともありました。しかし、大部分の方には、喜んで復帰してもらいました。もしその人が定年を過ぎている場合には、子供や孫で希望する人を優先的に採用しました。

昔いろいろと苦労された人たちのことを忘れて、いまの自分たちさえよければいいなどという考えは通りません。1989年(平成元年)に創業100周年を迎えるに当たって、物故された先人たちの労苦に感謝する碑を建てようと考えたのは、そんな思いがあったからです。そういえば住友には京都・鹿ケ谷に先輩をまつる碑があるなと考えていた折のことです。大阪行きの飛行機で偶然会ったキリンビールの小西秀次会長から、「これから高野山に建てた先輩たちの供養塔にお参りに行くところです。うちは供養塔を建ててからは、いいことばかりです」という話を聞きました。その時、小西さんは本山社長と一緒でした。トップお二人がそろってお参りに行かれるとは、さすがキリンビールは立派な会社だなと思いました。

場所は、大阪・吹田工場の向かい側の丘に決めました。ここはアサヒビール発祥の地でもあります。実は分譲マンションを建てようという計画があったのですが、100周年事業の一環として先輩をまつる方がはるかに意義深いことなので、直ちに変更しました。88年4月、まず特約店や小売店、アサヒを応援してくれた方々の物故者をまつりました。アサヒがシェアを減らして業界のお荷物と言われていた時でも、大変な苦労をされながら応援し支えてくれた方がたくさんいたことを、私は全国を歩き回ってよく承知していたからです。

次いで、当社の物故社員をまつりました。建立した「先人の碑」は、彫刻家の速水史朗氏のデザインによるもので、天に向かって翼を広げたような形の黒御影石を、社員と得意先などの関係者を象徴する2本の白御影石の柱が支える形をしています。

いま、約3800人をおまつりしています。地位に関係なく、同じ大きさの銅版に一人ずつお名前を書いて碑に納めています。また、私の部屋にも碑のミニチュアを置いてあり、毎朝9時半に礼拝しています。私の後の会長、社長も同じ事を日課にしています。

東京・吾妻橋の本部ビル(左)

100周年記念事業では、さらに東京の旧吾妻橋工場跡地を買い戻して、現在の本部ビルを建てました。私が顧問として入ったその日に、ここにわずかながら残っていたビヤホールの土地の売却計画をストップさせたことは前に書きました。業績が上向いてから、私はすでに売ってしまった土地を買い戻すことにして、売却先の墨田区と住宅都市整備公団に交渉しました。初めは断られましたが、本部ビル建設の願いを伝えて、ようやく売却した土地の4分の1を買い戻すことができました。

本部ビルは、事業と同様、いままでにないものをつくろうと考えました。100周年記念ですから高さは、100メートルにしよう。ビール会社らしく、グラスに泡の立つビールを入れたようなデザインがいい。

隣には貸しホールを建て、その下にビヤホールをつくりました。遊び心を随所に生かしましたが、傑作なのは何と言っても、ホールの屋上に載せた巨大な金色のオブジェですね。あれは炎を表現したもので、アサヒビールに結集する燃える人間集団のシンボルとして置いたのですが、なかなかそうは見てもらえません。「ウンチビル」というあだ名をいただいています。当初の構想では、炎がビルを貫くような形に建てるつもりだったのですが、構造上問題があってできなかったのです。

デザインは、フランスのフィリップ・スタルクさんに頼みました。いまや世界的に有名なデザイナーですが、あれが出世作です。ある時、彼のデザイン集を見て面白いと思い、知り合いの服飾デザイナーのコシノ・ジュンコさんに「スタルクというのはいいね」と言ったら、紹介してくれたんです。それで「あなた、この設計をやってみるか。スペインの大建築家、ガウディを超えるものがつくれるか」と尋ねたら、真っ青になって「考えてみる」と言って帰りました。

なかなか返事が来ないのでフランスに帰ったのかなと思ったら、4日目にひげ面になってひょっこり現れて、「あれからずっと考えていた。やらせてくれ」と言うわけです。それで任せたのですが、何と失敗。垂直に立てるつもりが、ごろんと寝てしまった。まあ、しょうがないやないかと思いました。

変わった格好になりましたが、よく見れば面白い造形です。100年たってパリの風景に溶け込んだエッフェル塔の例もあるでしょう。ところが、このオブジェのおかげで本社ビルはたちまち有名になり、浅草の吾妻橋たもとのランドマークとして、皆さんに親しまれています。

この連載は、2001年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および新聞連載に加筆して出版された本「樋口廣太郎 わが経営と人生 ―私の履歴書―」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2013年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。

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