赤坂、大手町… 東大以外にも赤門があった
受験シーズン真っ盛り。東京都文京区にある東京大学本郷キャンパスを訪れると、下見をする受験生に交じって、外国人観光客の姿が目に付く。お目当ては国の重要文化財に指定されている赤門だ。いまなお壮麗な赤門は東大の代名詞にもなっているが、かつては東京のあちこちに存在したという。赤門はどこにあったのか。探ってみた。
赤門は徳川将軍家の姫君のための門
東大赤門の手前にある朱塗りの看板には、こんな記述があった。
「文政10年(西暦1827年)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門」
東大の敷地はかつて、加賀藩の上屋敷だった。赤門はそもそも、加賀藩の屋敷内にあったものなのだ。
徳川将軍家の婚礼道具や行列の絵巻などを紹介する企画展「徳川将軍家の婚礼」(2月19日まで)を開催している江戸東京博物館の学芸員、杉山哲司さんによると、江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐとき、屋敷内に姫のための特別な御殿を建てた。これを御守殿という。御守殿門とはその入り口に構える門のことだ。
ちなみに姫君とは将軍家の娘だけを指し、大名家の娘は姫様と呼ぶ。大名家の娘が将軍家の養女となった場合は、江戸城に入った時点で姫君と呼ばれるようになるらしい。
赤坂にも赤門があった 現在は赤坂御用地に
将軍家の娘が嫁いだ大名屋敷に朱塗りの門があるのなら、ほかにもあったのではないか。杉山さんに聞くと、赤門の存在を示す絵巻があるという。「御入輿御行列図」(公益財団法人 徳川記念財団所蔵)。10代将軍・家治の養女、種姫が紀州藩の徳川治宝に嫁いだときの行列だ。今回の企画展で展示している。この絵巻に、朱塗りの門が部分的に描かれているのだ。
場所は赤坂。紀州藩の中屋敷だ。現在は赤坂御用地となっている。
絵巻に赤門が描かれているのなら、浮世絵にもヒントがありそうだ。国会図書館で探してみた。
当時の風景を描いた浮世絵といえば、歌川広重。「名所 江戸百景」や「東都名所」などを片っ端からみていくと、朱塗りの門がいくつか見つかった。
例えば日比谷にあった佐賀藩鍋島家上屋敷。あるいは霞が関の広島藩浅野家上屋敷。桜田門にあった彦根藩井伊家上屋敷にも赤い門が描かれていた。
これらも加賀藩や紀州藩と同じ御守殿門なのか。論文「将軍姫君の婚礼の変遷と文化期御守殿入用」をまとめるなど、御守殿に詳しい豊島区教育委員会文化財保護専門員の吉成香澄さんに事情を聞いた。
都内に10カ所以上の赤門があった?
「徳川家光以降、将軍家から大名家に嫁いだ姫君は20人以上います(婚礼前に死去した場合を除く)。通常は特別な住居を構えて朱塗りの門を建てるので、おそらくこれらの屋敷には赤門があったと思われます」
将軍家の姫君は、以下の場所に嫁いだという(地名は現在のもの)。
市谷(現・防衛省市ケ谷駐屯地、尾張藩)、麹町(紀州藩)、小石川(現・小石川後楽園、水戸藩)、芝(現・NEC本社、薩摩藩)、汐留(現・日本テレビ、仙台藩)、赤坂(紀州藩)、新川(福井藩)、大手町(現・和田倉門周辺、会津藩)、神田小川町(高松藩)、日比谷(佐賀藩)、日比谷(長州藩)、本郷(加賀藩)、霞が関(現・国土交通省、広島藩)、大手町(姫路藩)、神田橋(一橋家)、丸の内(現・帝国劇場、鳥取藩)、三田(久留米藩)
大名には上屋敷や中屋敷など各地に屋敷があり、また時代によって移転することもある。全て場所が確認できたわけではないが、赤門はこれらの屋敷内にあったと考えられる。
では、東大の赤門は現存する唯一の御守殿門なのか。調べを進めていくと、もう一つ、当時の赤門が残っていることが判明した。
姫君のための赤門、東大以外にも現存
場所は文京区。灯台もと暗し、というべきか、東大赤門のすぐ北側に、その門は静かにたたずんでいた。現在は西教寺という寺院の門になっている。
説明板によると、1874年(明治7年)、酒井雅楽頭の屋敷から移築されたという。瓦を銅板に改めるなど一部修理されたとはいえ、おおむね当時のままのようだ。文京区の有形文化財にも登録されている。住職に話を聞いた。
「11代将軍・徳川家斉の姫君、喜代姫が姫路藩の酒井家に嫁いだときに造られた門だと聞いています。もとは大手町にあったものを移築したそうです」
徳川将軍家由来の赤門は、東大だけではなかったのだ。
ただし、この赤門は御守殿門ではない。吉成さんによると、10代将軍、徳川家治の時代までは、姫君が暮らす住居は御守殿と呼ばれていた。しかし家斉の時代に入ると御守殿を名乗れるのは「従三位」以上の大名に限られるようになり、それより下の官位の大名は「御住居(おすまい)」と区別して呼ぶようになったという。酒井家は従四位のため、御守殿門ではなく御住居門だった。
ちなみに東大赤門が建てられたときの加賀藩主、前田斉泰は、将軍・家斉の娘の溶姫を迎えたことで従三位に昇進した。これに伴い御守殿を名乗ることが許されたという。
御守殿に関する話題が多い将軍・家斉は、子どもが多いことでも知られている。実に50人以上の子どもをつくった。成年したのはその半数程度といわれるが、多くの姫君を大名家に嫁がせ、各地に赤門ができた。
将軍家との血縁は大名家にとってもメリットがあった。一方で御守殿や御住居の建築、世話をする人手の手配、豪華な調度品など財政負担も強いた。
ところで、歌川広重の浮世絵をみると、彦根藩井伊家の屋敷にも赤い門が描かれている。しかし彦根藩に姫君は嫁いでいない。どうしてなのか。吉成さんに尋ねてみたが、はっきりとは分からないという。こうした御守殿門や御住居門ではない赤門も、各地にあったのかもしれない。彦根藩にあった赤門ではないかと伝わる門は現在、豪徳寺に現存している。
黒門・白門・鉄門… 大学が好きな「~門」
今や東大の代名詞となった赤門だが、「~門」という呼び方は他の大学にもある。集団の愛称として用いることがあるようだ。
例えば専修大学は「黒(くろ)門」。現在の神田神保町に移転した際に使っていた門が黒かったことに由来する。1907年に撤去されたが、2010年、当時の姿に復元された。
東大赤門と縁が深い金沢大学は一時期、白(しろ)門と呼ばれていたことがある。1949年に大学が誕生してからしばらくは金沢城内にキャンパスを構えていて、金沢城石川門の通称、白門が大学の代名詞になっていたという。
中央大学も白門と称されることがある。こちらは「はくもん」だ。中大によると、昭和初期には使われていたという。正義、潔白というイメージからきた、徽章(きしょう)の白からつくられたなど諸説あり、東大の赤門に対抗したとの説もあった。そういえば、後楽園キャンパスの正門も白っぽかった。
ほかにも早稲田大学は「稲門」、東大でも医学部は「鉄門」などそれぞれ通称がある。大学と門は結びつきやすいようだ。
江戸時代、姫君を迎えて赤門を建てた大名の多くは財政難にあえいだという。東大赤門の向こうには、大名たちの苦闘の歴史が眠っている。
(生活情報部 河尻定)
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