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「Arai神話」誕生、きっかけは創業社長の洞察力 ヘルメットの科学(2) 北岡哲子日本文理大学特任教授

日経テクノロジーオンライン

2017/2/20

図1 アライヘルメット事実上の創業者の新井広武氏(写真:アライヘルメット)

 どのようにアライヘルメットが世界一のヘルメットメーカーへ進化していったのか。今回は「アライメットストーリー」を、社会的背景も含めて紹介する。

 アライヘルメットという企業を年商100億円、従業員290人に育て上げ、海外にも広く名前を広げた立役者は現社長の新井理夫氏だが、基盤をつくった事実上の創業者は先代の新井広武氏である(図1)。

■軍用ヘルメット供給を一手に引き受ける

 広武氏は、新井帽子店の長男として生まれた。帽子店といっても、1937(昭和12年)ごろから、陸軍の南方戦線従軍兵士用の防暑用ヘルメットや戦車帽など、軍用のヘッドギアを開発・供給していたそうだ。

表 アライヘルメットの前史

 太平洋戦争が終結すると、これらの製造活動は中止された。1949(昭和24)年、進駐してきた米軍から軍用ヘルメットの払い下げを受け、その再生による帽体に自社製の内装を組み込み、消防用など保安帽として売り出すことでヘルメット製造の事業を再開した。1米ドル360円の単一為替レートが制定された年のことである。

 翌年の1950(昭和25)年には、プラスチックであるフェノール樹脂(ベークライト)を用いた帽体成形技術を開発し、自社製帽体によるヘルメットの製造・販売をスタートさせた。これが現在の「Arai」ブランドを付けたヘルメットの原型である。

 1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和会議にて、日米安全保障条約(旧条約)が締結され、1952(昭和27)年には日本は連合国の占領下から離れて独立国家になった。同年5月1日、戦後の学生運動で初の死者を出した「血のメーデー事件」が発生。この事件で警官多数が頭部損傷を受け、ヘルメットの重要性が認知されるようになった。アライにとって、以後の道筋を決定づけるような年になったのだ。

■繊維強化樹脂をヘルメットに採用

 同年7月、アライは日本初の保安帽JIS規格表示許可工場(表示許可番号1627)に認可された。同時に、ガラス繊維複合樹脂(FRP)製ヘルメット製造を日本で初めて開始した(図2)。

図2 ヘルメットの基本構造

 FRPを採用したのは、たまたま広武氏の知り合いにFRPで植木鉢などを作っている会社があり、そこからヒントを得たためだそうだ。帽体の材質をFRPに変えたらどうか、と目を付けた社長の洞察力には脱帽すべきだろう。今から見ても偉業であると感じる。

 それまでヘルメットといえば、米Bellの製品がシェアでも人気でもダントツの世界1位であったことは前回紹介した。ライダー誰もの憧れであったBellも、全くの偶然だったが、時を同じくしてFRP素材の採用に動いた。新井社長とBellの社長はお互いに尊敬し合い、まねることは絶対しなかったため、FRPという素材は同じであっても、両者の構造は全く違うものだった。

 アライは自ら製造した金型を使って、内側から圧力をかける熱加圧方式で一体成形していた。一方Bellはハンドメード方式のシェルであり、アライより単位質量当たりのガラス含有量が多くて材料強度は高いものを採用していたが、左右2つのパーツを後で接合してつくるため、衝撃が加わったときは一体成形品より割れる可能性は高かった。

 ちなみに当時、欧州のヘルメットは、革製の飛行帽(映画「紅の豚」に出てきそうな)を発展させたもので、材料にはポリカーボネート(PC)樹脂を使うのが主流だった。

 1953(昭和28)年2月には、公営の川口オートレースが開催されるにあたって、レーサー用のヘルメットの供給を開始した。日本最初の商用乗車ヘルメットだった。

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