出世ナビ

私の履歴書復刻版

ドライから30年 夕日ビールを王者に変えた元住銀マン 私の履歴書復刻版 アサヒビール元社長 樋口広太郎「回顧録」

2017/1/23

 アサヒビール(現在のアサヒグループホールディングス)の中興の祖といわれる元社長の樋口広太郎氏。1986年に住友銀行副頭取からアサヒビール社長に就任した。そして翌年にスーパードライを発売し、大ヒット。「夕日ビール」と呼ばれ、万年業界3位だった同社は、一気にビール業界のトップランナーに躍り出た。今もスーパーな存在だ。

 ちょうど30年前、1987年1月。夕日は朝日に変わった。その瞬間をアサヒビール社長の平野伸一(61)は鮮明に覚えている。

■原稿を無視、今年はドライ

 あの日、新年の事業方針を伝える説明会の席上に社長(当時)の樋口広太郎はいた。東京・港にある新高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル高輪)の会議室。集まった約300人の特約店の店主を前に樋口はこう言い放った。「今年は『スーパードライ』で行きます。世界で初めての辛口ビールです」。平野たち事務方が用意した原稿は樋口に完全に無視された。

 ほんの3カ月前、樋口はスーパードライにはほとんど関心を示さなかった。それどころか発売にはかなり否定的だった。

 当時、アサヒの主力商品には「アサヒ生ビール」があった。「コク」と「キレ」が両立する新しいタイプのビールで年間3430万箱を売り上げる久々のヒット商品。そのおかげでビール全体で、前年にあたる86年の販売実績も前年比12%増と絶好調だった。

 87年もこの「アサヒ生」で攻めるのが常道だったし、樋口も方針説明会でそう伝える予定だった。事務方が用意した原稿は「アサヒ生を徹底的にやります」となっていた。なのに樋口はこの原稿を無視した。スーパードライで行くと宣言した。全くの樋口のひらめきだった。

■デタラメなのに

 ライバルのキリンビールがよくアサヒのマーケティングを評してこう言う。「デタラメだ」。そしてこう続ける。「教科書的にはキリンが正解。しかし、結果はアサヒ、アサヒが売れる。理由は分からない」。

 秀才ぞろいのキリンらしい評価だが、確かにこの時の樋口の戦略も“アサヒらしく”デタラメだったかもしれない。なにしろ「アサヒ生」は3000万箱以上も売れているのだ。その主力商品とカニバル(共食い)可能性のあるスーパードライを投入するなどマーケティングの教科書では「×」だろう。

 しかし、スーパードライは売れた。そして今でも売れ続けている。発売から30年にもかかわらずいまだ失速せずビール市場では50%のシェアを維持、業界トップ企業を支える。

■ドライ、4度目に条件付きで発売

「スーパードライ」は起死回生の大ヒットになった

 樋口自身、スーパードライを否定し続けた。経営会議では3度も発売を却下、4度目にまた提案が出てきた時、根負けし「首都圏限定で100万箱なら」という条件つきで渋々、発売を認めた。ところがその3カ月後、さっと前言を翻し、主力商品に育てる方針を独断で決めたのだ。

 「天才的なひらめきを持った人だった」。平野はこう樋口を評するが、そのひらめきのまま樋口は行動し、社長在任中に累計6000億円の設備投資を実施、工場を一新した。「絶対に売れる」との直感に従い、会社の命運をスーパードライに託し垂直立ち上げを命じた。

 ひらめきはずばり的中した。10%を割り込むまでに落ち込んでいたアサヒのビール系飲料のシェアは2.5倍に拡大、樋口が会長を退任するまでに連結営業利益は5倍にまで膨らんだ。夕日は完全に朝日(アサヒ)に変わった。

■頭取候補、イトマン融資に反対

 京都大学卒業後に就職先として選んだ住友銀行(現三井住友銀行)ではMOF担(大蔵省担当)や頭取の堀田庄三の秘書役などにつき、早くから頭取候補と目され注目された。

 副頭取時代、頭取の磯田一郎が「向こう傷を問わない」として推し進めた中堅商社イトマン関連融資に頑として反対、これが引き金となりアサヒに転じる。

 結局、「戦後最大級の経済事件」といわれたイトマン事件へとつながる融資は住友銀行の屋台骨をきしませ、経営を揺るがせる。ここでも樋口の勘は当たっていた。

 アサヒ社長時代、労働組合とは徹底的に戦った。スパイクシューズで部下に壁を蹴破らせるなど激しい性格の持ち主であった。「ものすごい勢いで怒鳴られた」経験を持つ社員は少なくない。

 半面、敬虔(けいけん)なクリスチャンでもあった。「未来は神様にお任せするしかない」。しかし神様にお任せするまでは決して手を抜かない猛烈な努力家でもあった。=敬称略

(前野雅弥)

■26日(木)から樋口広太郎氏の「私の履歴書復刻版」の連載をスタートします。月曜日と木曜日に順次公開します。

出世ナビ新着記事

ALL CHANNEL