『逃げ恥』は誠に役に立つ 家事は無償?矛盾に光女男 ギャップを斬る(水無田気流)

2017/1/15

昨年末ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、女性の家事労働に焦点が当てられた異色の「仕事もの」だ。ヒロイン・みくりは大学院を出たものの就職に恵まれず、会社員・平匡の家事代行サービスを引き受ける。やがて住み込みで家事全般を請け負い、相応の給料をもらう「就職としての契約結婚」を平匡に持ちかけて……。

海野つなみ氏の原作漫画はもう少し複雑な機微があったが、ドラマはより直截的で、2人の間に恋愛感情が生まれ本物の夫婦になろうというとき、「結婚したら無給で家事を」と言う平匡に対し、「『好き』の搾取」と反発するみくりの姿勢が話題となった。

家事労働は有償であるべきか、愛情による無給であることにこそ意義があるのか。この「家事労働有償論」は、1960年代に起こった「第2次主婦論争」の主要なテーマである。

育児介護を含む家庭内でのケアワークは、通常無償労働である。それでは、もし家事労働が有償であるとすれば、誰が支払うのだろうか。想定されるのは、(1)ケアを受けなければ生活が立ち行かない当事者、とりわけ乳幼児や要介護の高齢者等(2)配偶者、通常は主たる家計の担い手である夫(3)国家の3者だ。

(1)は稼得能力が乏しいか所持しないがゆえにケアを必要とする人たちであるため、想定することは難しい。(2)は、企業による家族手当等はあるものの、たとえ妻がいかに高度な家事育児等を担ったからといって、夫の給与が飛躍的に増加するわけではない。(3)は、すべての主婦に公務員のごとき「家事労働給」を与えるのは財源上困難だ。

以上は冗談のような問いだが、問題の本質に根ざしている。

人は生まれて間もない時期も、人生の晩期においても、他人によるケアを必要としながら、経済的交換価値を生み出す能力は乏しくなる。それは、人間の生が経済的な価値の範囲には収まらないがゆえの必然だ。このケアワークが無償であることの根拠を、女性の「自発的な愛情」に求めたことは、社会の大いなる矛盾でもある。

これまでも論争は多々あったが、ついにエンターテインメントの主題とし、多くの耳目を引いた点でも、『逃げ恥』は、誠に「役に立つ」作品であった。

みなした・きりう 1970年生まれ。詩人。中原中也賞を受賞。「『居場所』のない男、『時間』がない女」(日本経済新聞出版社)を執筆し社会学者としても活躍。1児の母。

〔日本経済新聞朝刊2017年1月14日付〕