時代撃つ再演舞台に力 急がれる世代交代 演劇2016

異例かもしれないが、2016年の演劇界をふりかえるにあたって、再演の舞台から始めたい。ひとつの作品をじっくり練り上げ、時代と切り結ぶ仕事がなにより大切なものと感じられた1年だったからである。

まず挙げたいのは、終わらない沖縄戦の悲劇に光をあてたこまつ座の「木の上の軍隊」。栗山民也演出が3年前の初演をはるかに超える新しい作品を生みだした。終戦を知らずにガジュマルの樹上で潜伏し続けた兵士の実話がもと。劇化を切望していた井上ひさしの遺志を継いだ蓬●(草かんむりに来)竜太の台本も優れていたが、ガジュマルを神木に見たてた、能に通じるスタイリッシュな演出が光った。

沖縄は本当に同じ日本なのか。本土の皇軍兵士たる「上官」と沖縄の「新兵」の見方はかみあわず、その気まずさに沖縄の現在が映る。死者の声を聴く能の劇構造をもちこみ、沖縄出身のシンガー普天間かおりがパワフルな歌唱でこの世ならぬ「語る女」を体現した。アクチュアルな舞台になったのは、沖縄のいたみが増したからか。演劇はやはり時代と強く響き合う表現なのである。

在日コリアンの戦後を演劇的にたどる「鄭義信3部作」を新国立劇場が連続上演した。「焼肉ドラゴン」をはじめ定評ある作品群だが、通して見ると役者の地肌から社会の裏面史が浮き上がってきた。ことに朝鮮戦争を背景にした「たとえば野に咲く花のように」(鈴木裕美演出)が、九州の炭鉱事故の悲劇を描く「パーマ屋スミレ」の前史としてくっきりとした輪郭をもった。作者は2作を入念に演出し直している。

沖縄も在日も「日本」という国のいわば外縁に位置する。マージナルであるがゆえに強烈な声を発する演劇の場となるだろう。鄭義信は沖縄の歌手や役者と組んで「オムツ党走る!」という喜劇も演出したが、沖縄のオバアを題材に基地の島の悲しみをおおらかな笑いとともにすくいあげた。これらの劇に響いた声は、心ないヘイトスピーチの「たえられない軽さ」と対峙しているかに見えた。いわば言葉による言葉との闘いだ。

藤田俊太郎演出のミュージカル「ジャージー・ボーイズ」は力感あふれていた

5月に亡くなった演出家、蜷川幸雄が後進に託した思いも、世界の不条理と格闘する演劇的精神だった。芸術監督をつとめた彩の国さいたま芸術劇場の若い俳優集団「さいたまネクストシアター」はその道場でもあったが、藤田俊太郎という演出家の新星が誕生した。東宝ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」で、師ゆずりの演出手法を現在形の身体感覚で生まれ変わらせ、鮮やかな印象を残したのである。1960年代を駆け抜けたフォー・シーズンズの軌跡をたどる、いわゆるジューク・ボックス・ミュージカルで、中川晃教がヒット曲「シェリー」で高音を駆使した歌唱で観客を驚かせた。ブロードウェイ・ミュージカルに、うねるような民衆の心をまとわせたのは藤田演出の力だ。

どうやら演劇界は、最後まで新演出を量産した蜷川幸雄に頼りすぎていた。その死は演出家不足を痛感させたのである。限られた演出家に依頼が集中し、促成栽培のようなプロデュース公演が目につく現状がある。藤田俊太郎やイプセンの「野鴨(のがも)」で切れ味よく演出した文学座の稲葉賀恵らに期待したい。その中でことし充実した演出をみせたのは演劇界の中核的存在となったカタカナ表記のふたり、ケラリーノ・サンドロヴィッチとマキノノゾミだろう。

ケラリーノ・サンドロヴィッチはナンセンス喜劇の作法を音楽的、舞踊的に磨きあげ、ことに自作「キネマと恋人」で振付家の小野寺修二とともに軽快な喜劇の時間を刻んだ。ウディ・アレンの映画「カイロと紫のバラ」を翻案し、白黒映画から生身の俳優が出てくる面白さを精緻に演出。翻訳劇「8月の家族たち」も、奇怪な喜劇的時間を印象づけていた。

マキノノゾミは岐阜県の可児市文化創造センターで滞在創作し、谷崎潤一郎の「お国と五平」、小山内薫の「息子」を演出。埋もれがちな近代劇をよみがえらせた手腕をたたえたい。新国立劇場でも、ピュリツァー賞を受賞した翻訳劇「フリック」(アニー・ベイカー作)で鬱屈した青春群像を照らし出す才腕をみせた。ともに入念な演出だったといえる。

創作劇の作り手は世代交代が鮮明。1970年代、80年代生まれがすでに主軸だ。筆頭格はセリフの巧者、蓬●(草かんむりに来)竜太。閉館したパルコ劇場の最後の新作劇「母と惑星について、および自転する女たちの記録」(栗山民也演出)で母と娘の微妙な心理をとらえ、「嗚呼いま、だから愛。」でセックスレスの悲しみ、「星回帰線」でユートピア幻想の酷薄な結末を描き出した。人とつながりたい、でもつながれない――そんな心理のあやを繊細に織りあげ、現代の絶望を演劇化する劇作家といえる。

鶴屋南北賞を受賞したばかりの新進、長田育恵も旺盛な創作をみせた。ことに民芸運動の提唱者、柳宗悦を題材にした劇団民芸公演「SOETSU―韓(から)くにの白き太陽―」(丹野郁弓演出)が力作であり、ロシアの亡命詩人ブロツキーをモデルとした「対岸の永遠」(上村聡史演出)も力が入っていた。井上ひさしに学んだ評伝劇の書き手だ。

人気劇団のハイバイで私小説的演劇を手がける岩井秀人は、暴力をふるう父親と耐える母親の姿をしらじらとした空間に映し出す「夫婦」を作・演出。赤堀雅秋もダメ人間たちの微妙な心理の波立ちを「同じ夢」で作・演出した。早世した関西の演劇人、大竹野正典をいたむ瀬戸山美咲の「埒(らち)もなく汚れなく」も挙げておこう。

新世代で見逃せない活動をしている関西の木ノ下歌舞伎は、木ノ下裕一の入念な古典監修が異彩を放っている。多田淳之介演出の「義経千本桜」は源平の争乱と現代の戦争をつなぐ先鋭的な試みで、現代史を撃つ新しい歌舞伎であり、刺激的な現代演劇であった。

現代演劇の果敢な試みをもう少し挙げておこう。人間魚雷を題材にした自作「逆鱗(げきりん)」で幻想を舞台化する演出に磨きをかけた野田秀樹。今年は東京五輪に向けた文化プログラム「東京キャラバン」で、街に祝祭空間を出現させる文化サーカスの活動に力を注いだ。異なるジャンルの才能を出合わせる場づくりは演劇人の大切な仕事となるだろう。英文学者、河合祥一郎がKawai・Projectと銘打ち、新訳・演出した「ゴドーを待ちながら」も忘れてはならない。ベケットの伝説的な不条理劇がこれまでにない味わいをもち、終わりのない「時間のドラマ」が浮かび上がった。

不条理劇を書き続けた劇作家の仕事に演劇界あげて取り組んだ「別役実フェスティバル」の掉尾(とうび)を飾り、新国立劇場に「月・こうこう,風・そうそう」が書き下ろされた。かぐや姫伝説をめぐる謎めいた竹林のドラマだったが、パーキンソン病の闘病中にもかかわらず新作執筆を続ける力が観客を驚かせた。このあとも新作が予定されているのは心強い限り。

映像の世界同様、芸能プロダクションの影響力が演劇界でも強くなっている。効率的に稼ぐため、タレントの長期拘束を避ける傾向がある。売れっ子を軸に手堅い役者をかため、さらっと稽古して、ハイ本番。そんな舞台が増えている。創作のサイクルがどんどん短くなっていないだろうか。

集団芸術の演劇は稽古だけでなく雑談などを通じた経験の伝承が重要で、豊かな「時間」の共有が舞台の粘りに現れる。人材はそういう場から生まれる。その場限りのプロデュース公演は人を育てない。劇団四季が新作のディズニー・ミュージカル「ノートルダムの鐘」で、合唱と独唱の見事な調和を見せたのは象徴的な成果といえる。

集団性の価値を再認識させた公共劇場の舞台はその意味で貴重だ。静岡県舞台芸術センター(SPAC)の宮城聡・芸術総監督が演出した三島由紀夫の「黒蜥蜴(くろとかげ)」と共同創作「イナバとナバホの白兎」。フランスのアヴィニョン演劇祭で賛辞を集めて以来、打楽器をともなったSPACのアンサンブルは高い意欲で祝祭劇を創作し続けている。新潟市のりゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)も芸術監督の金森穣が演出する劇的舞踊「ラ・バヤデール」(平田オリザ台本)で、観客をうならせた。いずれも専属劇団、舞踊団あってこその成果だ。

現代舞台芸術の拠点である新国立劇場は大野和士(音楽部門)、小川絵梨子(演劇部門)という海外経験豊富な芸術監督を新たに迎える予定。東京五輪に向け、芸術監督の指導力を高め、場合によっては空席の続く芸術総監督を構想する環境は整ったといえるだろう。俳優や演出家を育てる場として演劇界の基盤をになってほしい。白井晃が新芸術監督に就任した神奈川芸術劇場はミュージカル「わたしは真悟」に制作協力、果敢な挑戦精神が特筆されるが、時間をかけた舞台づくりが課題だろう。

伝統演劇を見渡せば、やはり世代交代の1年だった。歌舞伎では菊五郎、仁左衛門、吉右衛門、玉三郎が今見ておくべき至芸を堪能させた。情感豊かな玉三郎、吉右衛門の「吉野川」、吉右衛門の「熊谷陣屋」、仁左衛門の「元禄忠臣蔵 仙石屋敷」などはまさに至芸。また玉三郎が「京鹿子娘五人道成寺」で後進を率い、芸の伝承にまい進する姿は、現代演劇にない古典芸能の必死さと強さを思わせた。新芝翫が芝翫型の「熊谷陣屋」などで古怪な魅力を発揮したのも頼もしい。国立劇場50周年を記念した忠臣蔵全段上演は後続世代の格好の学びの場。ここでも吉衛門の大星が抜群だった。

嶋太夫引退で太夫最高位(切場語り)が咲太夫のみとなった文楽は今が正念場だが、「仮名手本忠臣蔵」の通し上演で咲太夫が奮起、ここでも芸の伝承への強烈な決意がみられた。津駒太夫、千歳太夫らの進境に手ごたえがある。人形も世代交代の波にさらされるが、玉男、勘十郎がしっかりと支えている。危機を好機に変えたい。能の友枝昭世、浅見真州による「安宅」競演が気迫十分だった。

亡くなる直前の平幹二朗が現代演劇の到達点を思わせる演技をみせた「クレシダ」、主宰の松本雄吉の遺志を実らせた維新派の最終野外劇「アマハラ」。いずれも高みに達した舞台だった。平城宮跡で上演された「アマハラ」の金色に光る草原の美しさは見た人の記憶に長く残ることだろう。

(編集委員 内田洋一)

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