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アニメの力、実写の豊かさ 映画回顧2016

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NIKKEI STYLE

アニメーションの力とは何だろうか。かまびすしいクールジャパンの掛け声に、ともするとかき消されてしまいそうな、根源的なアニメの力。そのことを考えさせられた年だった。

実写とアニメの違いの一つに、画面に入り込む偶然の要素の多寡がある。どんなに作りこんだとしても、実写には偶然の要素が大量に忍び込む。風景、雑踏、天候、光、風、音……。そんな画面外の現実が出演者に及ぼす影響、さらには撮る側と撮られる側の関係。そうした夾雑物(きょうざつぶつ)が実写映画の豊かさともいえる。

アニメの場合、実写と比べて画面に入り込む偶然の要素は極めて少ない。画面のすみずみまで作り手がコントロールできる(その点では美術に近い)。作り手の意志がより直接的に、より純粋に画面に表れる。

片渕須直監督「この世界の片隅に」にはそんなアニメの根源的な力がみなぎっていた。

戦時中の広島・呉の庶民の生活を徹底したリアリズムで描いた作品である。まず驚かされるのは、風景や衣食住の細部まで緻密に再現した点。こうの史代の原作漫画も綿密な調査に基づくが、片渕はさらに徹底して文献や映像資料を精査した。

例えば、軍港を見下ろす丘での夫婦の会話の背景を描くために、戦艦大和は何年何月何日の何時ごろ呉に入港したか、その日の天候はどうであったかまで突き止める。あるいは、広島の原子爆弾のキノコ雲がいつまであったのか?(夕方まであった)、20キロ離れた呉からどのように見えたのか?(仰角40度まで立ちのぼった)。それらを正確に描き出すことで、記号化された原爆でなく、呉の人々が実際に体験した8月6日を再現する。

さらに重要なのは、そうした背景の中で動く人物と人物の触れ合いや微妙な息づかいを、卓越した動画技術で繊細にとらえている点だ。会話や身ぶりをアニメで表現する場合、漫画のようにポーズごとにカットを割って表現することもできるが、片渕はしない。人と人が話し、時に口をつぐむさまを、人と人が近づき、触れ合うさまをフルアニメーションでとらえる。そこに、ハッとするほど生々しい感情が表れる。

生々しい感情が端的に表れるのがラブシーンだ。1991年に高畑勲監督「おもひでぽろぽろ」が公開された時、そのリアルな風景と生活の描写に記者は驚いた。同時にこのリアルな物語の延長線上にあるであろう男女のむつみあいまでもがアニメで描けるのだろうか、という素朴な疑問を抱いた。「この世界の片隅には」はその解答とも思えた。

原作の映画化を熱望した片渕が、クラウドファンディングも使い、6年かけて実現した妥協のないリアリズム。それは日本アニメの到達点といえよう。

同時に、この映画は戦後世代が戦争を語り継ぐための一つの方法を示した。すず(声・のん)という無名の庶民の平凡な暮らしが戦争にのみ込まれていくさまをリアルに描く。平凡な暮らしが我々の現在の生活と地続きのところにあるだけに、それが壊れていくさまもまた切実に感じとれる。時が経つにつれ戦争の記憶にまとわりつくヒロイズムや被害者意識を排し、生活実感の一点でとらえる。その根拠となるリアリズムなのだ。

京都アニメーションの新鋭、山田尚子監督の「映画 聲の形」は、大今良時の漫画の映画化だが、その繊細な心理描写に驚いた。

転校生の少女を仲間と一緒にいじめていた少年が、やがて、いじめられる側になり、孤独を知る。時を経て、少女と出会った少年は、共に世界と向き合おうとする。山田は、いじめを図式的にとらえず、いじめられる側といじめる側の心理の奥底に深く深く降りていく。不安、孤立、憤り、衝動。人物のエモーションを描き出す上で、アニメーションという表現形式の純度の高さが武器になっている。

オランダのマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の初長編で、スタジオジブリも製作に参加した「レッドタートル/ある島の物語」も強烈な作家性を感じさせた。

無人島に漂着した男が帰還を試みるが巨大なウミガメに阻止される。やがて男はどこからともなく現れた女と家庭を築き、自然と共生しながら一生を送る……。東洋的な自然観と死生観を、余白の多い大胆な構図の画面に描き出す。短編「岸辺のふたり」(2000年)でわずか8分の中に人間の一生を凝縮して描いたデュドク・ドゥ・ヴィットのモチーフ、素朴だが力強い手描きの描線は一貫している。画面のすみずみまで作家の意志に満ちていた。

大ヒットした新海誠監督「君の名は。」は監督初のメジャー作品として、幅広く英知を集め、周到に練られた作品だ。山あいの小さな町の女子高校生と東京の男子高校生の身体が入れ替わる。細部に凝ったストーリーは謎を残しながら、意外な展開を見せる。

ディテールに凝ったわりには、人物の感情のひだまで描ききれていないうらみは残る。多くのクリエーターがかかわることで角がとれた面もある。とはいえ「すれ違い」という主題も、緻密で美しい背景の描写も、新海の作家性を核としている点は評価したい。さらに「大量死」という今日的なテーマに臆せず挑んだ点にも敬意を払いたい。

同じことはアニメ作家の庵野秀明が総監督を務めた実写映画「シン・ゴジラ」にもいえる。東宝の看板シリーズでありながら、まぎれもなく作家の映画なのだ。

謎や疑問は残るとしても、膨大な情報を盛り込んだ早口のセリフに引き込まれる。その背後に虚無と希望が交錯する庵野の世界観が確固としてあるからだ。そして、確かに東日本大震災後の日本が映っている。

「君の名は。」の25日時点の興行収入は213億円で、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」に次ぐ邦画歴代2位。邦画洋画通じても「アナと雪の女王」に次ぐ歴代4位というメガヒットとなり、さらに数字を伸ばしている。「シン・ゴジラ」も興収81億円を超えた。この2本の予想を大きく上回るヒットが今年の興行界を支えた。年間興行収入は10年の2207億円を上回り過去最高となるのは確実な情勢。東宝の千田諭副社長は15日の記者会見で「2300億円台の半ばまで行く可能性は十分ある」と語った。

「シン・ゴジラ」は東宝の単独製作。「君の名は。」も東宝が製作委員会の幹事を務める自社主導作品。松竹も三木康一郎監督「植物図鑑」、山田洋次監督「家族はつらいよ」、中村義洋監督「殿、利息でござる!」など自社主導の作品が好成績だった。その一方でドラマのスピンオフなどテレビ局主導の作品は退潮が鮮明になった。

邦画全般を見渡しても豊作だった。多くの映画作家が作品歴の最高かそれに近い作品を撮ったという感がある。アニメが力を見せつけると共に、実写ならではの豊かさも十分に味わえた。

山下敦弘監督「オーバー・フェンス」は佐藤泰志の小説の映画化で、職業訓練校で学ぶ老壮青の失業者たちが校内ソフトボール大会に臨むという、ただそれだけの物語。そのシンプルさは女子高校生たちがバンドを組んで文化祭に出る「リンダリンダリンダ」(05年)を思わせるが、そこににじむ人生の苦みや愛の悲しみはこれまでのどの山下作品よりも深かった。リアリズムの作家である山下が、相米慎二を思わせるような一瞬のイメージの飛躍に一筋の希望を託したシーンは、この上なく美しかった。

西川美和監督「永い言い訳」は、妻が事故死したのに涙を流せなかった男の物語。過剰な自意識ゆえに他者に対して不寛容な男のかたくなな心が、子供たちとの触れ合いを通して、少しずつ融解していく。西川自身が「今まで書いた人物の中で自分に最も近い」という40代の主人公の揺れ動く心理に真実味があった。子供たちの生き生きとした表情や四季折々の風景など映像的にも豊かで、西川が得意とする緻密な脚本の世界がすっくと立ち上がっていた。

山下も西川も40代を迎えたばかりの中堅監督。そのまなざしが熟度を増し、人生の手触りを確実にとらえていた。

同世代の李相日監督「怒り」は殺人犯と疑われる3人の男を巡る3つの物語が同時進行する群像劇だが、ただならぬ緊張感の中に、人間の痛みをつかみ取る確かな力があった。三島有紀子監督「少女」は17歳の少女の残酷さと繊細さを生々しく、かつ、イメージ豊かにとらえた。白石和彌監督「日本で一番悪い奴ら」は何のためらいもなく悪徳警官となった若者に今日的リアリティーがあり、現代社会の映し鏡となっていた。中野量太監督「湯を沸かすほどの熱い愛」は難病ものというありがちな題材を、実の母に会えないでいる娘たちの物語として見せきった。銭湯、炎、煙というイメージが鮮烈で、オリジナル作品である点も高く評価したい。

一方、現在の日本映画の屋台骨を支える50代の第一線監督たちの充実ぶりも揺るがなかった。

是枝裕和監督「海よりもまだ深く」は監督自身が育った東京・清瀬の団地を舞台に、現代日本の停滞感と人間の悲しみを鮮やかに切り取った。「そして父になる」(13年)以降、自分の足元を掘り下げるようになった是枝のまなざしは世界に確実に突き刺さっている。「歩いても歩いても」(08年)の系譜に連なる小品だが、人間を見る目はより辛辣で、ずっと深みのある作品になっている。

石井岳龍監督「蜜のあわれ」は、室生犀星晩年の幻想小説の映画化だが、ファンタジーでありながらCGはほとんど使っていない。撮影、照明、録音、美術、衣装、そして演技によるアナログのファンタジーだ。そこに犀星の世界に通じる奇妙な生々しさがある。イメージの衝撃力にかける石井の潔さに脱帽した。

佐野和宏監督・主演「バット・オンリー・ラヴ」は、がんで声をなくした男が、やさしい妻の貞操に疑念を抱きながら、声が届かぬゆえに苦悩する物語。実人生でも咽頭がんで声を失った佐野の渾身(こんしん)の復帰作だ。佐野が全身で表現する、声にならない叫びが、画面に充満する。映画がまぎれもなく身体表現であることを証明した。

篠崎誠監督「SHARING」は、篠崎が「あれから」(12年)に続き、東日本大震災と向き合った作品。3.11以前に津波や原発事故の「予知夢」を見たという人々の物語だ。実際にあるはずのない記憶は、災害後の社会の不安から来るのか、癒やしの反応なのか。そんな問いを通して、篠崎は世界のもろさに対する人々の想像力に寄り添う。それは篠崎の一貫した主題でもある。

瀬々敬久監督「64/ロクヨン」は、わずか7日しかなかった昭和64年に起きた未解決の誘拐殺人事件が時効を目前にして急展開する。警察の内部をリアルに描くサスペンスだが、昭和の終わりという時代の転換点を示し、そこで失われたものをあぶりだそうとする瀬々のたくらみにうなった。我々は何を失ったのか。その問いは平成28年を生きる一人ひとりに突きつけられている。

阪本順治監督「団地」は現代の団地を舞台にした長屋もののようでもあり、一種のSFでもある。日々の暮らしと地続きのところに現実の裂け目を持ち込み、昔ながらの地縁とドライな近代性が混在する今日の地域社会を逆照射した。阪本の大胆な想像力、表現力は健在だ。

塩田明彦監督「風に濡れた女」は日活のロマンポルノリブート(再起動)プロジェクトの1本。上映時間80分、一律の低予算、10分に1回のラブシーンなど、往年のロマンポルノに準じた条件で作られたが、かえって作家性が鮮明に表れた。欲望を断った男と欲望に忠実な女の心理的な闘いを、およそ荒唐無稽なアクションを通して描ききり、身体表現としての映画のありようを純粋な形で示した。

岩井俊二監督「リップヴァンウィンクルの花嫁」、園子温監督「ひそひそ星」、三池崇史監督「土竜の唄/香港狂騒曲」には映画作家の確固たる刻印があった。杉山泰一監督「の・ようなもののようなもの」、松岡錠司監督「続・深夜食堂」には上質な俳優のアンサンブルがあった。

若手では深田晃司監督「淵に立つ」がカンヌ国際映画祭ある視点部門で審査員賞を受賞する快挙があった。平穏な家庭を脅かす闖入者(ちんにゅうしゃ)の物語が世界を驚かせたのは、深田の明確な映画的イメージのみならず、ふつふつとたぎるような怒りがこの映画の底流にあったからだ。家族、そして社会に対する冷徹で批判的なまなざしは日本の先行世代にあまり見られない。若手の旗手として深田が評価された意味は大きい。

真利子哲也監督「ディストラクション・ベイビーズ」の暴力衝動も同じ文脈でとらえることができる。柳楽優弥演じる狂犬のような青年がなぜ殴るのか、なぜ立ち向かうのか。映画は説明しない。漁師町というそれらしい背景はあるが、そこにある因習が具体的に描かれるわけではない。柳楽はほとんどしゃべらず、ただピュアな暴力への衝動だけを描ききる。そして彼の居場所のなさが浮かび上がる。

山戸結希監督「溺れるナイフ」も紀州を思わせる海辺の町を舞台にした少女と少年の神話的な物語だが、内実は中上健次の世界とまるで違う。土着的な風土は単なる背景に押しやられ、徹頭徹尾、少女の特権的な輝きだけで世界を構築する。少女は走り、川に落ち、海に飛び込む。その水しぶきや濡れた身体がまぶしい。何が彼女を走らせるのかはわからないが、走らずにはいられない切迫感だけは伝わる。

メジャー作品にも若手の秀作はあった。吉田康弘監督「バースデーカード」は、親の不在を描き続ける吉田の主題の一貫性に加え、俳優との充実した共同作業がドラマの情感を豊かにしている。オリジナル作品の強みを感じた。森義隆監督「聖の青春」は早世した天才棋士・村山聖の実話に基づくが、日本映画にありがちな浪花節的エピソードを排し、ハリウッド映画のようにひたすら容姿や身ぶりや話し方といった外形的要素から真に迫る。そのドライな描写が効果を上げていた。

ベテランでは足立正生監督「断食芸人」が強烈だった。カフカの小説の舞台を現代の日本に置き換え、商店街で断食する男を見物する群衆を描き出す。オリの外にいる群衆の思考の硬直性と不自由さは、不都合な真実に耳をふさぎがちな東日本大震災後の日本人の陰画ともいえる。

ドキュメンタリーでは小林茂監督「風の波紋」の豊かな映像が心に残る。焦点をあてるのは越後妻有の里山での、都会からの移住者も含めた新しい形の「結」。撮影中に信越地震が起き、倒壊した家を仲間たちが再建するのだが、震災復興の声高なスローガン的な色彩はまるでない。ただ黙々と作業する人々に寄り添い、共に生きる人々の関係性を見つめる。そこにこの静かな映画の力強さがある。

外国映画で最も印象に残ったのはパトリシオ・グスマン監督「チリの闘い」3部作だ。今年ようやく日本公開となったが、1975年から78年にかけて完成したドキュメンタリー映画史上の傑作である。アジェンデ政権末期の左右両派による大衆動員をとらえた映像は生々しく、今の世界のポピュリズムに通じるのではないかという恐怖さえ覚えた。

クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」には米国の今が、ジャ・ジャンクー監督「山河ノスタルジア」には中国の今が確実に映ると同時に、世界の今も映っていた。高度情報化社会の進展と共に忘れられ、失われようとしている人間性の復権への祈りがあった。オールドメディアとなった新聞の使命を問い直し、記者の奮闘を描くトム・マッカーシー監督「スポットライト/世紀のスクープ」にも勇気づけられた。

トッド・ヘインズ監督「キャロル」、ジョン・クローリー監督「ブルックリン」、ペドロ・アルモドバル監督「ジュリエッタ」の緻密な色彩設計、繊細な情感、そして力強い女たちのドラマに拍手を送りたい。小津映画を思わせるアイラ・サックス監督「人生は小説よりも奇なり」の深い悲しみも忘れられない。

黒沢清監督が単身パリに乗り込んで撮ったフランス映画「ダゲレオタイプの女」は現実の不確かさ、世界の不確かさ、存在の不確かさを問う傑作だった。風に揺れるカーテン、ひとりでに開く扉、明るい光の中の幽霊。なじみのない土地で撮ったせいか、黒沢映画のエッセンスがより高い純度で結晶していた。国境を越える映画の力を見事に示した。

ポーランドのアンジェイ・ワイダ、イランのアッバス・キアロスタミが世を去った。共に世界的映画作家であると同時に、日本を愛した人だった。

(編集委員 古賀重樹)

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