東京五輪の聖火リレー トーチを持って最初に走った男

2016/12/27
1964年東京五輪の聖火リレーで使われたトーチ
1964年東京五輪の聖火リレーで使われたトーチ

白い煙をたなびかせながら颯爽(さっそう)と走る聖火ランナーの姿は1964年の東京五輪を語るうえで欠かせない。聖火はリレーの途中で雨や強風によって消えることは許されず、その白い煙は五輪を彩る美しさを備えていなければならなかった。東京五輪で用意された聖火トーチは約7000本。そのうちの何本かは現存しており、当時の記憶を今に伝える。

東洋学園大学が所蔵する聖火トーチ。第6代学長の故愛知揆一氏が当時、文相や大会組織委員会理事を務めていた縁で、今も大切に保管されている。今夏、同大学が東京五輪関連の所蔵品を一般公開したところ、約700人が来場し、実際にトーチを手にしながら往時をしのんだ。トーチは柄の部分に「SHOWA KASEIHIN」の刻印がある。火薬・火工品の製造を手掛けていた当時の「昭和化成品」が製作したことを示している。同社を前身とする日本工機(東京・港)はトーチの製造・販売を今も続けている。

東京五輪のトーチを手にして走った最初の人物は日本工機の元社員、熊谷進さんだった。現在は70歳。火薬や爆薬を製造する会社に勤務しながら、「自分の会社は五輪という平和の祭典に使う聖火トーチを造っている」という実感がわいたことを今でも覚えている。

東京五輪を半年後に控えた64年4月、熊谷さんは昭和化成品に入社した。聖火トーチとの出合いは新人教育の場だった。そこで58年の第3回アジア競技大会で採用された自社製品の説明を聞いた。同社は東京五輪用に「雨でも風でも絶対に消えないトーチ」の開発を当時の大会組織委員会から依頼され、その完成を間近に控えていた。

新人の熊谷さんが配属されたのは、製造日報を記録する集計係。直接トーチに触れることはなかったが、先輩や仲間が理想の完成品を仕上げる苦労を間近で見ていた。

熊谷さんはラグビー部員だったことがきっかけで聖火トーチの開発に関わることになった

納品日が近づいたある日のこと、同社のラグビー部員だった熊谷さんは、その体力を買われてトーチを持って走るという役回りで開発に参加することになった。「上司から『暇を持て余しているなら走れ!』なんて言われてね。グラウンドを何周も走らされたよ」と熊谷さんは当時を振り返る。

同社は火薬の専門家を抱えていたが、何があっても火が消えない状態にするまでは試行錯誤の連続だったという。そんな中、開発チームが目をつけたのが海上事故の際に使う救難信号筒だった。激しい風雨にさらされても消えない技術を応用し、ついに求めていた聖火トーチが誕生した。