85歳の名指揮者アツモン、名古屋で現役引退を飾る
日本各地を客演して39年 「歓喜の歌」で有終の美
ほぼ40年にわたって日本各地のオーケストラと共演し続けてきたハンガリー生まれのイスラエル人指揮者、モーシェ・アツモン。85歳になった2016年、「まだ現役としての力があるうちに第一線を退きたい」と決意し、名誉指揮者の称号を持つ名古屋フィルハーモニー交響楽団と生涯最後の演奏会を12月17日、名古屋市中区の日本特殊陶業市民会館(名古屋市民会館)フォレストホールで振り終えた。
アツモンはブダペストで音楽を学び始めたが、ユダヤ系だったため第2次世界大戦末期の1944年、13歳で家族とともにナチズムを逃れイスラエルへ移住した。エルサレムでチェロ、ホルン、作曲、指揮を修めた後にホルン奏者としてデビュー。60年にロンドンのギルトホール音楽院に留学し、巨匠アンタル・ドラティの下で指揮の勉強を再開した。63年、ニューヨークで開かれたミトロプーロス国際指揮者コンクールで第2位(第1位をクラウディオ・アバドとズデニェク・コシュラーが分け合い、第3位には若杉弘が入った)をとった。審査員の中にはレナード・バーンスタインのほか日本フィルハーモニー交響楽団の創立指揮者、渡邉暁雄もいた。
72~76年には創立指揮者ハンス・シュミット・イッセルシュテット亡き後の北ドイツ放送交響楽団(現在の北ドイツ放送エルプフィルハーモニー管弦楽団)首席指揮者のかたわら、ベルリン・フィルの指揮台へ招かれたり、ドイツ・グラモフォンで録音したり……と、華々しかった。同じころ72年から東京都交響楽団(都響)の音楽監督・常任指揮者だった渡邉は辞任の意向を固め、後任をひそかに探していた。たまたま英マンチェスターの名門、ハレ管弦楽団へ客演する際、ロンドンからの列車のコンパートメントでBBCフィルハーモニックを指揮しに行くアツモンと劇的再会を果たす。マンチェスターでお互いの演奏会を聴き合い、意気投合した結果、渡邉は「お試し」に77年、アツモンを都響の客演に招いた。これが成功して翌年、アツモンは渡邉に代わって都響の首席指揮者に就き、83年まで務めた。退任後も日本各地のオーケストラへの客演を続け、名古屋フィルとは86年7月、名古屋市民会館で最初の共演が実現している。
翌年、アツモンは外山雄三の後を受け、名古屋フィル常任指揮者となり、93年の退任後も名誉指揮者の立場で共演を重ねてきた。一方、都響とは93年を最後に縁が途絶え、2011年4月、東日本大震災直後で多くの外国人音楽家が来日をキャンセルする中、家族の反対を押し切って18年ぶりの共演を果たしたが、以後は再び疎遠となった。欧州でも91~94年の独ドルトムント歌劇場音楽総監督を最後に、目立ったポストを持たなくなっていた。何より音楽の基本に忠実で、はったりやスタンドプレーを嫌い、ある意味で指揮者に必要な自己顕示欲や上昇志向が決定的に欠けていたのが致命的だった。
新進時代のダイナミックな音楽づくりは次第に、しみじみと味わい深いものに変わっていった。若い共演者や聴衆には時として、退屈に響くこともあっただろう。レパートリーは年とともに意識的に狭まり、ベートーヴェンやブラームス、マーラーのいくつかの交響曲を繰り返し指揮するようになった。それでも名古屋フィルの楽員、マネジメント、聴衆はアツモンの音楽を愛し続け、2013年3月の第400回記念の定期演奏会、マーラーの「交響曲第3番」の指揮もマエストロ(巨匠)に委ね、歴史に残る名演奏を刻印した。
同じ年の暮れ、京都市交響楽団でベートーヴェンの「交響曲第9番『合唱付』」を指揮し終えたアツモンが唐突に、語り出した。
「指揮者人生は若いころ考えていたより、ずうっと地味に展開してきたが、何の意味がある? 代わりに約40年、いつも練習初日からきちんと準備してくる楽員に日本各地で囲まれ、どの楽団も一貫して演奏水準を切り上げる様子を目の当たりにしてきた。これほど素晴らしい音楽家の大勢いる国が、世界のどこにある? 私の人生の勲章は、日本人とともに音楽を究めてきたことに尽きるよ」
だが、その後しばらく、マエストロは日本に姿を現さなかった。最後の来日で初めて明かされたのは、14年から15年にかけて生死の境をさまよう大病に見舞われていた事実だった。奇跡の生還を果たし、16年のシーズンには1月の横浜市で、神奈川フィルハーモニー管弦楽団との初共演も実現した。年末の名古屋フィル客演から先も「まだまだ現役を続ける」と思われたが、初夏に引退の意向を伝えてきた。12月の名古屋フィルでは9~10日、愛知県芸術劇場コンサートホールの第441回定期演奏会でベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(独奏=イリヤ・グリンゴルツ)とブラームスの「交響曲第2番」、16~17日の名古屋市民会館フォレストホールでベートーヴェンの「交響曲第9番『合唱付』」を指揮した。
ブラームスは当初、第3番の予定だったが、アツモンの強い希望で第2番に差し替わった。86年の名古屋フィルとの初共演、2011年の東日本大震災直後の都響定期、今年1月の神奈川フィル・デビューのいずれもが、第2番。「ブラームスの田園交響曲」と呼ばれる穏やかな曲想、ニ長調という人生肯定的な調性が、今のマエストロの心境には合致しているのかもしれない。12月10日、「最後の2番」は楽員一人一人の胸に去来するものも多かったのか、さまざまな響きが交錯する名演だった。
12月17日、現役指揮者として最後の演奏に当たった「第9」ではピアノリハーサルの初日、「さあ、ベートーヴェンを奏でよう! 大きな声ではなく、室内楽のようなアンサンブルで」と4人の独唱者にも呼びかけ、誇張のない響きを丹念に整えていった。各地のオーケストラで何度も接した「アツモンの第9」だが、生涯最後の「歓喜の歌」は一点の曇りもなく輝き、最高の出来栄えだった。舞台上の共演者からも鳴りやまない拍手、楽員からの花束、聴衆の歓声……。すべてが終わった後の楽屋を訪ねると、穏やかにほほ笑むマエストロが一言、漏らした。
「今日までは音楽家。明日からは一人の音楽愛好家になる」
(池田卓夫)
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