著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はブロードキャスターのピーター・バラカンさんだ。
――お父さんはポーランド出身だそうですね。
「ユダヤ系のポーランド人で、第2次世界大戦中はナチスから逃れ、国外をさまよっていたそうです。戦後、イタリアの大学で化学の博士号を取得。英国へ渡り、ロンドンで会社勤めを始めました」
――お母さんはミャンマー(ビルマ)で育ったとか。
「母はミャンマー人の父親と英国人の母親の間に生まれました。“できちゃった婚”だったようです。『あなたが生まれたから結婚するしかなかった』と冷たくされ、罪悪感を抱いて生きていました」
「両親はロンドンで出会い結婚しました。ただ、家族全員で仲良く過ごしたのは僕が12歳ごろまでだったと思います。それ以降、両親は同じ屋根の下でも別居状態でした」
――ご両親から音楽の影響を受けたことはありますか。
「僕が小学生の頃、母はジャズボーカルのレコードを持っていて、特にビリー・ホリデイが好きだった。いつもかけるから物憂げな歌声が耳にこびりついた。心にすっと入り、無条件で好きでしたね」
――お母さんの音楽が原体験にあったのですね。
「今振り返ると、そんな感じもします。ほかにレイ・チャールズとベティ・カーターのデュエットアルバムなど、最高の表現力を持つ歌手のレコードを繰り返し聴かされ、感性が養われたと思います」
「ある日、帰宅したら大音量で音楽が鳴り響いていた。『どうしたの?』と聞いたら『買ってきちゃった』と言う。ローリング・ストーンズのデビューアルバムでした。母は悩みも多かったけど好奇心旺盛で感覚が若かった。僕はもうワクワクしました」
――大学卒業後、日本で働くようになりました。ご両親は寂しがりませんでしたか。
「母が寂しいと言うようになりましたね。彼女は結婚も幸せなものではなかった。大事なのは2人の息子。だけど弟もギタリストとして渡米してしまった。このため、電話すると長くなりましたね」
「日本での仕事がうまくいくようになると両親とも喜んでくれた。特に母が誇りに思ってくれた。母は2回来てくれました。京都などに連れて行ったら面白がりましたね」
――お母さんはロンドンで暮らし続けたのですね。
「晩年は認知症を患いました。誰にでも厳しい話し方をするようになった。心の中にしまっていたつらい思いをぶつけ始めたのでしょう。突然電話がかかってきて30分、一方的にののしられたこともあった。つらかったですね」
「ところが症状が進行すると穏やかになりました。つらい思い出そのものを忘れてしまったのでしょう。昨年91歳で亡くなりました。そばにいてあげたかったという思いは残りますけど、最後にようやく苦しい思いから解放されたようで、ほっとしました」
[日本経済新聞夕刊2016年12月20日付]