大林素子さん 母はライバル、今も舞台に
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はスポーツキャスターの大林素子さんだ。
――バレーボールで活躍。コートにはじける笑顔が印象的でした。
「実は私の人生はコンプレックスの塊のようなものです。幼稚園の頃から健康優良児だったのですが、どんどん身長が伸びて、小学校6年生で170センチ。好奇の目で見られ、イジメにあいました。『いじめてきたやつらをギャフンといわせてやる』の一心で、バレーに打ち込みました」
「本当は歌手か役者になりたかったのです。宝塚に憧れていました。何度、自分の背丈を恨んだことか。バレーでオリンピックに出て、名声を確立できたら、その後に道が開けるかもしれない、という夢を抱いて頑張りました」
――そんな大林さんを、ご両親はどう見ていましたか。
「応援してくれましたよ。共働きなのに母は朝、弁当を作って私を中学校に送り出してくれました。でもバレー漬けの毎日。高校、そして日立製作所の時代は寮生活で家にはほとんど帰らなかったので、これといった親子の会話はなかったですね。でも母は私の生き方を尊重してくれ、見守ってくれていました。言葉はなくても、親子の絆はしっかりしていました」
――引退後、活躍の舞台はテレビに移りました。
「改めて思うのですが、私は母の人生を後追いしているのです。母はもともと陸上の走り高跳びの選手で、1964年の東京五輪の候補選手。その後、プロダンサーになり70歳を過ぎた今でも、役者として年に数回、舞台に立ちます。女優としてさらに輝く夢を持っています。私はまだ女優の卵。発声訓練、ダンスレッスンなど修業を積み、母のライバルになりたいです」
――親子そろって、夢に向かって走り続けています。
「父は亡くなったので、妹を含めて家族は3人。それぞれ自立し、住まいは別です。みんな忙しいので一緒に食事をする機会は少ないけれど、たまに全員そろうと、母から『お願いだから、健康にだけは注意してね。便りがないのが私の幸せ。だれかが病気すると、私の仕事に支障が出るから』と言われます。そういう人だから、私の方も自分の携帯に母から電話があったりメールが届いたりするとドキッとしてしまいます」
「みんな、やりたいことをやって元気な姿を見せ続けるのが我が家にとって一番の幸せなのかもしれません」
――それでも親はやがて老いていきます。
「母もいつかは足腰が弱り、舞台に立てなくなる日が来ます。介護が頭をよぎることがあります。育ててくれた親だから、お世話するのは当然。私も年を重ねます。そうなったら言葉の力が親子の絆を保つのかな、と考えています。『お母さん、今までありがとう』というような言葉です。でも母にはいつまでも女優でいてほしいですね」
[日本経済新聞夕刊2016年11月29日付]
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