純国産衣料に再起を託す
アパレル熱心、産地は静観
日本国内で製造工程が完結する「純国産」の衣料品に光を当てる取り組みがアパレル業界で始まっている。「繊維産業の復活」の旗が翻るが、繊維産地には冷ややかな見方もある。
「純国産衣料」の普及を促しているのは業界団体の日本ファッション産業協議会だ。織り・編み、染色・整理加工、縫製、企画・販売をすべて日本で手掛けた国産品を「J∞QUALITY」(ジェイ・クオリティー)商品として認証する制度を2015年2月、創設した。
ヒット商品も誕生
日本の繊維産業は、製造から販売まで工程ごとに細かく企業が分かれているのが特徴。「川下」で製品の企画・販売を担うアパレル企業の力が強く、「川上」の企業は下請けの色合いが濃い。今回の認証制度も、各工程の企業が認証を受けた後、アパレル企業が商品ごとに改めて申請する仕組みだ。9月末時点で、認証を受けた企業数は700、商品数は850を超す。審査を通過した商品は専用タグを付けて販売され、三陽商会の「100年コート」などのヒット商品も生まれた。
オンワード樫山の「五大陸」ブランドの紳士コートも認証商品。織り・編みはイチテキ(愛知県一宮市)、染色・整理加工はソトー(同)、縫製は東和プラム(岩手県花巻市)が担当する。価格は税抜きで13万円と決して安くはないが、高品質と着心地の良さをアピールしている。オンワード樫山の関口猛執行役員は「技術力が高い産地企業との関係を強化したい」と話す。
もっとも、衣料品全体に占める割合はまだ、ごくわずか。同協議会が運動を始めたのは、「日本の繊維・縫製産地の地盤沈下に歯止めをかけたい」(松田雍晴事務局長)狙いからだ。景品表示法では、衣料品の最終工程である縫製だけを日本で手掛ければ「国産」と表示できる。にもかかわらず、日本で販売中の衣料品の品番数のうち「国産」は業界推計で3%。純国産は多く見積もっても国産のうちの半分程度とみられている。
日本の繊維産業の事業所数は約1万3千と過去20年間で約4分の1に減っている。バブル崩壊後のデフレ経済のもとで、アパレル各社が、中国を中心とする海外からの調達を増やして製造原価を引き下げたのが主な原因だ。
円安で国内回帰
国内産地を再活用する動きが出てきた大きな理由として円安の定着がある。輸入品と国産品との価格差が小さくなり、国内の技術力に改めて目を向けるアパレル企業が増えてきた。品質や安全性を重視する消費者の一部も「純国産衣料」に注目し始めている。
ただ、「川上」の繊維産地の反応はまちまち。「国内回帰」を歓迎する声がある一方、「アパレル企業はどこまでやる気があるのか読めず、大幅な受注増は期待できない」と模様眺めの企業も多い。
繊維産地の実態調査を続ける大阪府大阪産業経済リサーチセンターの小野顕弘主任研究員は「受注減で廃業を余儀なくされた企業と、自社ブランド品の直接販売や海外ブランド企業からの受注などで活路を開く企業の二極化が進んだ」と分析する。
染色加工業の松尾捺染(大阪市)はインクジェットプリンターを活用したデジタル印刷技術に強みがあり、ハンカチや雑貨などへのプリントを本業にしてきた。08年のリーマン・ショック後、苦境を脱するために目を向けたのが「川下」への進出だった。地元企業と協力して自社ブランドのストールなどを開発し、百貨店の催事に積極的に参加する。松尾治社長は「下請けだけでは生き残れない」と従業員に意識改革を促す。
消費者にとって「純国産」は数ある判断材料の一つにすぎない。産地の疲弊で急速に分解と崩壊が進行しつつある国内の製造・販売システムをどのように立て直し、消費者に純国産の魅力を浸透させるのか。アパレル企業は重い課題を背負っている。
日本製、評価する声多く
「試着して気に入った服が日本製だとうれしくて買う」「日本の縫製技術はすごい。中国製とは違うよと叫びたい」「本当なら日本製を選びたいけど、経済的な理由で、いまは買い足せる余裕はない」。ツイッターでは、日本製の質の高さを高く評価する声がある半面、値段の高さが購入をためらわせると不満を訴える人がいた。
一方、「ここ数年、安価な服を買うたびに生地が薄く縫製が甘くなっている気がする」「服を購入するときはデザインと素材をみる」といった書き込みも多く、値段が高いと感じても質を重視して服を選ぶ人は増えているようだ。調査はNTTコムオンラインの協力を得た。
「染色技術を武器に」東大阪・中小企業の挑戦
日本の繊維産地の苦境が続くなか、新機軸を打ち出す企業が増えている。繊維産業の地盤沈下が進んできた大阪で逆風を跳ね返し、新規事業に取り組む中小企業の事例を紹介する。
松尾捺染(大阪市)の創業は1926(大正15)年。初代の松尾治三郎氏は木版によるプリントを手掛ける有限会社「松尾盛進堂」を大阪・船場に設立した。木版は1色のプリントには向いているが、多色刷りになるとうまくいかない。2代目の正男氏は「シルクスクリーン」を活用した捺染(なっせん)に変える。東大阪市内の工場でハンカチやスカーフを染色し、業容を拡大した。1964年に株式会社「松尾捺染」を立ち上げ、事業の基盤を築く。
3代目の治氏が社長に就任したのは36歳のとき。1975年にドイツ・ロイトリンゲン繊維工科大学で、修士に相当するディプロームを取得し、25歳で帰国後、一社員として働いてきた。ハンカチと雑貨向け染色事業は堅調で財務内容も良好だった。80年代後半からのバブル経済の波に乗り、年商は20億円に。キャラクター商品の全盛期であり、サンリオ、バンダイ、ディズニーなどからの受注が急増した。
90年代に入り、バブル経済が崩壊すると業績が悪化する。95年、京セラの「アメーバ経営」を導入して部門別の採算管理を徹底し、苦境を乗り切ろうとした。取引銀行からの「貸しはがし」を何とか防ぎ、生き残りを模索する。2001年には米国からの大型受注が舞い込み、息を吹き返す。しかし、08年のリーマン・ショック後、再び受注が急減した。
このままでは生き残れないと危機感を強める中で目をつけたのが、自社ブランド品の直接販売だ。地元企業と協力してストールなどを開発し、百貨店の催事に出店している。直接販売のサポート役は、大阪府と協同組合関西ファッション連合が事務局を務める「せんば適塾」。新商品や新事業の開発を支援するプラットフォーム事業で、中小企業や関連団体などが交流する場として、10年に発足した。バブル崩壊後、中国産をはじめとする安価な輸入品が繊維産地を直撃した。大手アパレルからの受注を待つだけでなく、自ら企画・販売を手掛けたいと考える中小繊維メーカーが増えたが、アパレル企業に代わる「まとめ役」の不在に悩んでいた。「せんば適塾」はそんな悩みに応える役割を担う。
せんば適塾で交流を深めた企業を中心に、デザイナー、糸・生地・染色・縫製などの企業がノウハウを持ち寄り、新たな商品をつくる「ZOO PROJECT」が13年にスタートした。プロジェクトから生まれた商品を百貨店でも定期的に販売している。
松尾捺染は来春、創業の地である大阪・船場に店舗を設ける計画だ。松尾社長自ら店頭に立って生地などを販売するほか、アーティストが作品を発表する場を提供するなど、繊維・ファッションの情報発信の拠点としても活用する。同社の売り上げ全体に占める直接販売の割合はまだ小さいが、「近い将来、収益の柱に育つ」と50人強の従業員に理解を求めている。
(編集委員 前田裕之)
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