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それでも親子

蝶野正洋さん 60才でも高み目指したおやじは手本

2016/11/16 日本経済新聞 夕刊

ちょうの・まさひろ 米国シアトル生まれ、東京都育ち。1984年新日本プロレスへ入門、プロデビュー。2010年からフリー。アパレル会社を運営する一方、近年は救急救命の啓発活動に取り組む。

 著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はプロレスラーの蝶野正洋さんだ。

 ――米国で生まれたのですね。

 「おやじは製紙会社勤務で、英語が話せたので海外赴任が長かったんです。東南アジアやアフリカなども回り、自分が2歳半のころ米国から帰国して東京に。自分は3人きょうだいの末っ子で甘えん坊だったのでしょうね。よく泣いてアピールし、泣くな歯を食いしばれと叱られました」

 ――中学、高校ではやんちゃだったとか。

 「家では『パパ、ママ』『正洋ちゃん』と呼びあう一方、地元の中学の仲間と夜はバイクに乗っていました。週末は早く寝たふりをして、特攻服に着替えベランダから屋根伝いに集合場所へ。一度おやじに見つかり『何をやっているんだ』となって、とっさに『お祭りをやっているからちょっと見学に』と自分。愛媛出身で昭和一桁生まれのおやじは東京の暴走族を知らず、自分のイメージも2歳半の正洋ちゃんから変わっていなかったのか、信じてくれました」

 「仲間に売られたケンカを買ったら、おやじは『誰が先に手を出した?』と聞くんです。『俺だ』と答えると、『それならいい。金魚のフンのように後ろについていくだけのケンカはダメだ』と。若い頃、海外で日本人故に軽んじられ、交渉で苦労した経験からか、『人を信用するな』と学校で教わることとは正反対のことも教えてくれました」

 ――プロレスの道に進むのは反対されたとか。

 「浪人2年目でプロレスをやりたいと言いました。親には大学でアメフトをやるからと言い、飯をがんがん食って体を鍛え、プロレスの入門テストに合格。未成年の入門には親の承諾書が必要で、大学に1校受かったところで切り出した。お袋は『ふざけたこと言ってるんじゃない』と泣き、おやじは『厳しい世界について行けるわけない』と猛反対。最終的に『1年ください、途中で帰ってきたら大学に行きます』と初めて正面から自分の意見を言って家を出ました」

 ――その後、わかり合えましたか?

 「頑張ってるな、なんて言葉は聞いたことがない。家族との時間もなく働く姿に、俺は会社員にはならないと思ったもんだが、おやじの子会社社長就任パーティーに参加した時、大企業に勤めたおやじの晴れ舞台に呼んでもらえたとうれしかった」

 「俺が30歳ぐらいの時、初めて建てた一軒家を見せることなく他界。霊きゅう車で新築の家の前を通って火葬場へ行った。社葬で会社の人から、スポーツ新聞を机に置いておくと読んで喜んでいたと聞いた。俺たちレスラーは30、40代がピークで今俺は53歳。おやじは50、60歳になっても高みを目指した。ねじり鉢巻きをつけて深夜まで書類を作る姿は目に焼き付いている。その姿は手本ですよね」

[日本経済新聞夕刊2016年11月15日付]

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