『治天ノ君』 天皇と国民のあり方考えるドラマ
劇団チョコレートケーキ
天皇陛下の「生前退位」をめぐる議論がこれから本格化する。天皇と国民との関係、そのあり方を改めて考える機会ともなりそうだ。そんな折、思考を激しく揺さぶる舞台と出合った。大正天皇に光をあてる劇団チョコレートケーキの「治天ノ君」。3年前に初演され、極小劇場での短期公演にもかかわらず演劇界の話題をさらった。今回、ロシア3都市を含む再演ツアーが組まれている。
大正天皇は政治的に表舞台から消し去られたという「大正天皇押し込め論」と向き合った問題作。最初に断っておくが、あくまでフィクションだ。とはいえ明治、大正、昭和3代の天皇を登場人物とすること自体、演劇史上まれ。天皇が神格化された戦前はもちろん、戦後になっても昭和が終わるまでは企画すること自体はばかられただろうから。
井上ひさしが戦争責任問題に迫る「夢の痂(かさぶた)」を発表したのはわずか10年前、このときも昭和天皇その人ではなく、巡幸の予行演習のため別人がその姿をまねるという形で現れたにすぎない。「見えざる存在」を描きだす難しさに挑んだのはぐっと若い世代、1978年生まれの劇団座付き作家、古川健である。
つまり、これは天皇制を正面から演劇化する時代がようやく到来したことを告げる舞台なのだ。近代の天皇をめぐる証言の発掘や研究が近年進み、客観的な検証が可能になってきたという背景があるだろう。もとより天皇のセリフを書くことは至難。宮中の密室で人間ドラマを浮き彫りにすることも容易ではない。この劇ははじめから実録とは距離をおく。いわば考えるための仮の視点を演劇化する珍しいフィクションといえる。
舞台は天皇の椅子とそこにいたるじゅうたんの道があるだけ、あとは漆黒の闇である。天皇の座の背後は死者の国への回路となっており、大帝といわれた明治天皇が異様な存在感を放って現れては消える。維新の大業を成し遂げ、国民と一体となって強国を造りあげた偉大な「帝」だ。時間が往還する劇の中で、あるときは実在の天皇、あるときは亡霊として出てくるが、感情のない神がかった存在感がもたらす効果は大きい。
明治天皇は息子を愚か者としかりつけ、父と呼ぶことさえ許さない。帝は国家をすべる「大きな器」でなければならないと説く。大正天皇はそんな先帝に呪縛されつつも、自分の御代では民の間に親しく分け入る皇室を築こうと改革を模索する。巡幸で庶民の暮らしの中に入り、一夫一婦制を初めて取り入れ、戦後の天皇像の先駆けとなる振る舞いを繰り返す。病弱だった体も補導役、有栖川宮威仁の薫陶によって回復、周囲は思いがけない名君を発見する。が、それもつかの間……。
作者は参考文献に挙げられる原武史著「大正天皇」などから、視点を借り受ける。明治天皇の誕生日は文化の日、昭和天皇の誕生日は昭和の日として今も休日として継承されるが、大正天皇の生まれた8月31日は平日。脳の病をくりかえし発表することで大正天皇の人間主義は意図的に消し去られ、再び現人神(あらひとがみ)の伝説化が準備されたのではないか。病弱ながら明敏でもあった大正天皇は歴史から消された――。作者は側近の牧野伸顕が明治の復活を策謀し、昭和天皇が救国の君として再登場するドラマを仕立てたのである。
細部には異論もあろう。大正天皇から摂政就任の許諾を得る場面では、昭和天皇のおそるべき行動が演劇的に提示されるが、違和感を覚える観客もいそうだ。大正天皇の妻、貞明皇后節子(さだこ)を語り部としつつ、原敬、牧野伸顕、大隈重信ら限られた人物のセリフだけで時代の動きを構成する手法にはおのずと限界があり、評論的な解釈がそのままセリフになっている気味もある。にもかかわらず、2時間半弱を一気に見せる舞台の力はただごとではない。国の形をめぐるセリフの応酬が息もつかせない。看過できない問題作であるゆえんだ。
考えてみれば歴史的人物をフィクショナルに設定し、歴史を動かすダイナミズムをドラマにする作劇は三島由紀夫の「わが友ヒットラー」をはじめ、数々の秀作がある。演劇にとって近代の天皇ほど過激な題材はないだろう。現代史の実証的研究にさらに踏み込み、より重層的なドラマを書く劇作家たちがいずれ現れるだろう。この舞台はその入り口を開いたといえるのではないだろうか。
演出は古川とコンビを組む劇団主宰の日澤雄介。この劇団としては大きな空間を処理するのに苦労するが、虚空は深い。感情のない神としての明治天皇、いかにも現代風で自由なものいいをする大正天皇を対比させ、原、大隈、牧野らの個性を誇張することで劇の説得力を引き出すことに成功している。節子を演じる松本紀保は初演でも評判だった。語尾にアクセントをつけるのが時に行きすぎる感もあるが、立ち姿の美しさ、臣をひざまずかせる気品が舞台を終始支えている。明治天皇の谷仲恵輔が達者、大隈の佐瀬弘幸も注目すべき役者だ。大正天皇に西尾友樹、牧野に吉田テツタ。題名の治天とは天下を治める、の意。
(編集委員 内田洋一)
11月6日まで、東京・シアタートラム。
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