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長谷川閑史・武田薬品工業会長(70)が語る、母校・福岡県立修猷館高校時代の思い出。1784(天明4年)創立の藩校に遡る歴史を持ち、政官財に数多くの人材を輩出してきた名門ならではの自主性を重んじる校風の中、勉強そっちのけだった長谷川少年。しかし、修猷館で過ごした時間はけっして無駄ではなかった。それどころか、その3年間は、将来、長谷川氏が日本を代表する経営者となるための揺籃(ようらん)の役割を果たしたのだった。

<<(上)「山嵐」に一蹴された福岡・修猷館時代

高校生活を満喫しすぎて、浪人した。

修猷館にはもちろん、勉強に打ち込む生徒もたくさんいましたが、私のように正反対のタイプもいて、極端でした。勉強しなければ、浪人のリスクも高まります。でも、先生たちもけっして生徒を型にはめようとはしなかったので、受験が近づいても、「浪人したかったら、浪人してよかたい」という、なんとなくそんな雰囲気がありました。

私も、高3の時の大学受験では合格した大学もありましたが、納得がいかなかったので、結局、浪人しました。ちょうどその年、修猷館が卒業した浪人生のために「修猷学館」という付属予備校(今はすでに廃止)を設立し、私はその1期生となりました。1学期だけそこで勉強しましたが、夏休みと同時に山口の実家に戻り、「離れ」に籠もって受験勉強に明け暮れました。おそらく、この時の1年間が人生の中で一番勉強した時期だったと思います。

その甲斐あって、翌年、早稲田大学政経学部に合格。ここでも、必死にやれば最後は何とかなるということを、再確認しました。

ただ、大学でもあまり勉強はしませんでした。第1次早稲田紛争の混乱の中で入学し、しばらくは授業が始まらなかったため勉強する環境にはなかったのです。そして、卒業は第2次早稲田紛争のどさくさに紛れてという有り様でした。

余談ですが、経済同友会の代表幹事だった時に、やはり早稲田の政経学部出身の野田佳彦首相と話をしていて、「お互い伸び代で勝負していますね」と笑い合ったことがあります。学生時代に勉強しなかった分、社会人になってから大きく成長できたのかもしれません。

武田薬品工業入社後は主に海外畑を歩いた。

「見知らぬ土地で周りに頼れる大人がいない寄宿生体験が海外勤務のときに生きた」と振り返る

「見知らぬ土地で周りに頼れる大人がいない寄宿生体験が海外勤務のときに生きた」と振り返る

武田に入社してからは、早い時期から海外勤務を希望していました。日本市場の成長はいずれ行き詰まり、海外でのビジネスチャンスが広がっていくと確信していたためです。30~38歳まで労働組合専従をした後、会社復帰の際にようやく希望がかない、まず国際事業部に異動。その2年後に、ドイツ武田に出向しました。ドイツには3年間いましたが、その間、現地法人を分割・移転することになり、新しい事務所の開設や現地社員の雇用など仕事が一気に増えました。慣れない海外で、しかもドイツ語もよくわからず大変でしたが、なんとかやり遂げました。

その時は、見知らぬ土地で、周りに誰も頼れる大人がいない中で、自分で何とかしなくてはと懸命に考えたり悩んだりしながら寄宿生活した修猷館時代の体験が生きたと思いました。

その後、ドイツから米国に赴任し、約10年間、米国で過ごしました。私のキャリアには大きなプラスとなりましたが、海外生活が長引いたせいで、修猷館時代の友人とは、なかなか再会する機会がありませんでした。私の場合、福岡は地元ではないので、帰省の際に再会するということもできず、ますます交流が希薄となってしまいました。

ただ、そんな中でも、何人かとはいまだに交流が続いています。NTTコミュニケーションズの社長を務めた和才博美氏は、中高6年間、同じ釜の飯を食った仲。彼は、名は体を表すというか、私と違って頭が良かった。経済同友会でも活躍し、今も親しくしています。元中国大使の宮本雄二氏も同期で、ビジネス上でもアドバイスをもらったりしています。福岡で整形外科を開業している光安知夫氏も上京の際に一緒に食事をするなど親しくしています。

2003年に社長に就任。日経優良企業ランキングで何度も1位を獲得するなど、武田を世界的な製薬会社に成長させた。

高校時代にむさぼるように本を読んだと言いましたが、実は本から学んだことが、今の私の世界観や経営哲学になっています。

私は基本的には、宇宙も含めこの世に存在するすべてのものは循環しているという考えを持っています。つまり、永遠に続くものはないということです。これをビジネスに当てはめれば、良いことは永久には続かないが、悪いことも永久に続くわけではない。だから、たとえ現状が悪くても、それを打開するためにできることがあるならやってみよう。だめだったら、違うやり方でやり直せばいいじゃないかと。これも、必死にやれば最後は何とかなるという、高校時代の経験から身に付けた楽観的な思考に通じるものがあります。

社長就任以降は、当時の武田の状況とグローバルの医薬品業界の現状を照らし合わせ、どうすればこの会社をグローバルなレベルで競争力のある会社に変えられるか常に考え、行動に移してきました。そして、会社をさらに高いレベルに引き上げることができる人材を社内外に求め、その結果、2014年、フランス人のクリストフ・ウェバー氏を武田初の外国人社長として招へいしたわけです。

武田にとって、外国人のトップは前例のないことでしたが、武田の将来の成功確率を必ず高めてくれるという信念のもと、とにかくやってみようと思い切って決断しました。現在は、新体制のもと、再び良い方向へと動き始めており、武田はさらに高いレベルに進むことができると楽しみにしています。

インタビュー/構成 猪瀬聖(ライター)

前回掲載「『山嵐』に一蹴された福岡・修猷館時代」では、質実剛健、自由放任の校風を満喫した高校時代を聞きました。

「リーダーの母校」は原則、月曜日に掲載します。

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