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それでも親子

有吉玉青さん 作家となり母・佐和子さんの大きさ理解

2016/10/19 日本経済新聞 夕刊

ありよし・たまお 1963年東京生まれ。90年、母・佐和子との日々をつづった『身がわり』を著す。他に『恋するフェルメール』『美しき一日の終わり』。日本舞踊劇台本や長唄の作詞も手がける。

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は大阪芸術大学教授の有吉玉青さんだ。

――お母さんの佐和子さんが亡くなった年齢の53歳に近づいてきましたね。

「母はこんなに若かったのだと実感しています。ずっと先のことだと思っていたので、そこまでは自分の仕事をして、53歳になったら母の仕事の整理に専念しようと考えていたのですが、自分のこともしっかりやっていかないと母に『何をやっているの』と叱られそうです」

「20歳の時に母が亡くなってしまったのは本当に残念でした。大人になって、これからいろいろな話ができるところだったのに。私は仕事をする母を理解できていませんでした。申し訳なかったという気持ちでいっぱいです」

――作家になって、わかったこともありますか。

「一昨年、母の没後30年で仕事を振り返る色々な企画があり、資料を整理しました。10月1日から和歌山県の有田市郷土資料館で始まった特別展(小説『有田川』の世界)もその一つで、お手伝いしています。娘の義務としてではなく、一人の作家の仕事を、正しい形で残していきたいという思いでやっています」

「自分も小説や随筆を書いてみて、母という作家の大きさがわかりました。小説は、わからないことをわかろうとする試みだと考えています。母は書くために勉強し、努力をしていました。家事は一切しませんでしたし、取材でよく家をあけました。でも、それも、仕方がなかったのだと今は思います」

――2年前に発刊された「ソボちゃん」で、玉青さんの身の回りの世話は祖母の秋津さんがされていたと書かれていました。

「祖母は税金の計算、お客様の応対、母の記事のスクラップ、礼状書きなどを一手に引き受け、母が仕事を好きなだけできるように、全力で支えていました。なかでも私を育てる仕事が最も大変だったと思います」

「祖母は秘書のようでしたが、それは母親としての愛情でした。叱咤(しった)しても常に励ましてくれる母親が最期までそばにいた母がうらやましいです。周囲から、祖母が母親代わり、母は父親代わりかのようにいわれることがありますが、祖母は祖母、母は母。これが私の完全な家族でした」

「母は一作書き終えるたびに入院していました。仕事が寿命を削ったのだと思ったこともあります。けれども、母はもともと体が弱く、20歳まで生きられればとも言われていたらしいです」

「書くという生きがいを見つけ楽しさを知り、それに打ち込める環境をつくったのは祖母。だからこそ、母は多くの作品を残すことができ、言われていた20歳の倍以上の年月、生きられたのかもしれません。時を経て、母のことが、ようやく少しわかってきたような気がします」

[日本経済新聞夕刊2016年10月18日付]

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