始まりは64年TOKYO 言語を超えたピクトグラム

2016/10/13

スポーツイノベーション

1964年東京五輪で使用した「施設シンボル」の図案を手に話す道吉剛さん(東京都世田谷区)
1964年東京五輪で使用した「施設シンボル」の図案を手に話す道吉剛さん(東京都世田谷区)

走る姿の人型は陸上、泳げば競泳――。五輪では競技や施設を言語でなく絵「ピクトグラム」で表現する。その始まりが1964年東京五輪だった。アジア初、アルファベットになじみのない言葉を話す国での開催となり、誰にでもわかる表記が必要になったからだ。

フランス語と英語を公用語とする国際オリンピック委員会(IOC)からはまずこの2言語で表記、日本語は3番手と言われた。

「日本人にフランス語は絶望的に通じない。英語もかなり危ない。そして外国人には日本語がほぼ通じない。それでも競技と必要最小限の施設は分かるように表示しないといけなかった」と東京五輪アート・ディレクターを務めた美術評論家の勝見勝さん。日本伝統の家紋にヒントを得て、紋章のような「シンボル」を作ることにした。

チケット発売のため、競技シンボルは山下芳郎氏が五輪前年までに完成させていた。だが食堂、トイレ、バス停などといった施設シンボルは頭になかったという。このままだと、選手村内での移動ひとつとっても混乱が起きかねない。

1964年東京五輪で使用した女性トイレのピクトグラム

64年2月、赤坂離宮にあったデザイン室に、20~30代の若手グラフィックデザイナー11人が集められ、施設シンボルの作成が命じられた。そこにいたのは田中一光氏(のちの無印良品アートディレクター)を中心に横尾忠則氏、宇野亜喜良氏、福田繁雄氏ら、長じて“大家”と言われる人ばかり。

「勝見さんだから、これだけのメンバーを集められた。みんな忙しいから集まるだけで大変だった」と、デザイン室コーディネーターを務めた道吉剛さんは話す。道吉さんは70年大阪万博にも関わることになる。

個性的な11人の共同作業はいかなるものだったか。まず「お題」を出す。一斉に11人が絵を描き、それぞれの絵について議論、一つのシンボルに落とし込む。「トイレ」というテーマには、犬が片足を上げて用を足す絵もあったそう。

「食べる」「着替える」など、行為を絵にすると複雑になってシンボル化しにくかった。五輪全体の統一感を重視し、亀倉雄策作のエンブレムのスタイルから大きく逸脱しないようにする必要もあった。「みなさん個性が強いから、画風をそろえるのは大変だった」と、まとめ役だった道吉さんは振り返る。

最後は35種類が完成。トイレはドレス姿の女性と、スーツ姿の男性で表す案に落ち着いた。「ドレスは当時最先端のマリー・クワントのミニスカートを参考にした。このトイレマークが後に世界中に広まったのには驚いた」と道吉さん。

ただ、百パーセント満足の出来ではなかったようだ。印刷する時間などを考慮し、施設シンボルのデザイン作成に使えた時間は正味6カ月。「もっと時間があったら」というほろ苦い思いもメンバーには残ったという。だからこそ道吉さんは20年版ピクトグラムに期待する。「2020年まで時間はありますね」

64年は施設などには大金が投入されたが、デザインにはほとんど回ってこなかったそう。若手はほぼ無報酬でやり遂げた。その分、当時もプラチナチケットだった開会式の席が全員分、用意された。

(原真子)

[日本経済新聞2016年10月13日付朝刊]