社長としては、事業構造を立て直すことも急務でしたが、それと同じくらい重要だったのが、社員の心が折れないようにすること。最初の2年間は、土日返上で国内外の支店を回り、現場の社員を励まし、現場の要望をくみ上げるよう心掛けました。まさに「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」の気持ちでした。
社長就任時には、灘校の同級生から“祝福”された。
灘校の同期とは、今でも、2カ月に1度、東京・六本木の寿司店に集まって旧交を温めています。
社長に就任した時は、その会に30人ぐらいの同級生や同窓生が集まり、祝福してもらいました。灘校は創業者の子弟が多いので社長になること自体は別に珍しくありませんが、東証1部上場企業の社長となると、それほどいません。「同期では大西が初めてだ」と思い切り持ち上げてもらいました。でも、実は落ちがあって、「なんだ、社長といっても、潰れた会社じゃないか」と、みんなで大笑い。厳しい任務に当たる前の、気の置けない仲間とのつかの間のひとときでした。
灘校の生徒は、卒業後も、一人ひとりが個性的で集団行動が苦手なことに変わりはありませんが、集まって騒ぐのは大好きです。理由は、自分の知らないいろいろな話が聞けて、面白いから。大学時代の友人は、似たような仕事に就いている人が多いので、どうしても話題が狭くなりがちです。高校の同期の集まりのほうが、話題が豊富で、思い出話で盛り上がります。
灘校時代の経験から、妻とも話し合い、2人の子供は、共に高校生の時に1年間、海外留学させました。いろいろな人と出会って多様性を学ぶことは、子供たちの将来に必ずプラスになると確信していたからです。私自身は一度も海外の経験がないので、子供たちには海外経験させてやりたいとの思いもありました。
長男も長女も、帰国した時には予想以上に成長していて、親として恥ずかしく感じるほどでした。その後、恩返しのつもりで、ホストファミリーとして毎年、海外から留学生を受け入れ始めました。かれこれ15年ぐらい続いていて、最近は1年を通してのホストファミリーの役目は卒業させていただき、時々留学生をお預かりするレスキュー隊に徹しています。実は、今でも家に帰ると、わが家には留学生がいます。