児童文学作家・あまんきみこさん 私に生きる母の声
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は児童文学作家のあまんきみこさんだ。
――旧満州(現中国東北部)のお生まれですね。
「父は満鉄の社員でした。明治生まれの大変厳しい人で、行儀が悪いとしかられました。横になっているところに、頭の上を歩いたら怒られたのを覚えています」
「父と母、祖父母、おば2人と私の7人家族でした。よくお話をしてもらったのが子どもの頃の思い出です。祖父は乃木希典の偉人伝などで、祖母は民話。上のおばはアンデルセン童話、下のおばはおばけや幽霊の話が多かったです。母は私にそっくりな主人公、例えば『ニンジンが嫌いな花子さん』の物語を作って読んでくれました。お話を読む声を思い出します。声の喜びをいっぱいもらいました」
――14歳の時、敗戦を迎えました。
「敗戦の後、私たちが住む大連市に旧ソ連軍が進駐してきました。何が起きるか分からないので家の外には出られず、髪は女の子と分からないよう短く切られました。父が本好きで家にはたくさんの歴史物などがあったので、よく本を読んでいましたね。謡本やダンテの『神曲』を音読しました。不思議なことに、声に出して読むと何となく分かるのです」
――その後、日本に引き揚げられました。
「引き揚げ後、母ががんの手術をしました。私が高校3年生の時、母の体調がさらに悪くなったので、大学への進学を諦めて母の看病をしていました」
――お母さんを安心させようと結婚されたそうですね。
「母親がとても気に入っていた、おじの同僚の男性がいて、その人と結婚することにしました。19歳で婚約し、親戚が集まったその晩、結婚後のことなどについて、ずいぶん母と話し込みました。母もほっとしたのだと思います。『喉が渇いた』と言うのでお茶をいれて持っていったら、意識がありませんでした。婚約した日の翌朝に永眠しました。43歳でした」
「母が亡くなって立ち直れないくらいでした。でもいっぱい泣いたら『私の中にお母さんが生きている』とある時思ったのですよ。それからは心の中で母と対話していました。子育てしながら『母もこんな気持ちだったのだな』と母親の人生をたどっているようでした」
「だから、自分が母の亡くなった年齢を超える頃、とても苦しくなりました。母親の姿は43歳で止まっているので、それより年上になることに戸惑いました。それからは余生のようだったのに、ずいぶん長生きしちゃった」
――それほど特別な存在だったのですね。
「やっぱり母親ってそういうものかしらね。43歳を過ぎてからも心の中に母が現れますよ。その時は私が子どもの姿になってるのです。都合いいわねえ」
[日本経済新聞夕刊2016年10月4日付]
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