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日立製作所のスーパーエンジニア、矢野和男氏が人工知能(AI)研究へと向かうきっかけは、半導体事業の見直しに伴う全社的な事業再編だった。AIという言葉を口にするのもはばかられるような環境の中、ブレークスルーできたもう一つの原点は、学生時代に没頭したジャズにあるという。無関係にも見えるジャズと研究との接点は、どこにあったのだろう。

<<(上)「社内失業」のスーパーエンジニア 逆張り発想で活路」

科学者になることを志した高校生のころ、ノーベル物理学賞をとった湯川秀樹博士に憧れていました。第1志望は湯川博士の出身大学、京都大学でしたが、残念ながらかなわず、早稲田大学に入りました。

そのころ、サークル活動でサックスを吹き始め、かなり没頭しました。ただある時、サックスを究めるだけでは、サックスは究まらないということにも気づきました。

たとえば、同じサークルの中に、後から入ってきたはずなのにどんどん伸びてうまくなる人がいる。そういう人はやはりサックスだけではなく、ピアノやギターも弾けば、アレンジもこなすなど、トータルで音楽そのものを知っていました。彼らにとって、サックスはあくまでも表現手段の一つにすぎなかった。

それに比べて、私は音楽をやっているのではなく、ただ単に、サックスという楽器を吹きこなそうとしていた。音楽そのものを楽しみ、没頭するというところにまでは至っていなかったのです。

定量データ分析に心理学を掛け合わせる

日立製作所 研究開発グループ技師長 矢野和男氏

日立製作所 研究開発グループ技師長 矢野和男氏

ジャズにまつわるそんな苦い経験があって以来、研究者として何かのテーマに取り組む際にも、より一段高い視野で見て、自分で垣根を作らないようにしようということは心がけてきました。半導体の研究をしていた時も、保守本流のテーマを攻めるというよりは、Aという分野とBという分野を掛け合わせたらユニークな研究ができるのではないか、ということばかり考えていたような気がします。

じつは、AI研究のブレークスルーにも、このような掛け合わせが関係しています。人間の計測と定量データ分析に心理学的要素を加えたら、より人や組織に関する本質に迫れるのではないか。そんなふうに考えたことが、大きなきっかけになっています。

出会いのひとつは、仕事で米国出張した時にありました。シカゴのオヘア国際空港の書店に入ると、カリフォルニア大学のソニア・リュボミルスキー教授の『ハピネスの方法(The How of Happiness)』がレジの前に平積みされていた。AIの研究が再注目されるのと歩調を同じくして、この10年あまり、人間の幸福というものに対しても、科学のメスが入れられるようになってきました。いわゆる「ポジティブ心理学」と呼ばれる分野です。リュボミルスキー教授はこのポジティブ心理学の専門家でした。

人間をより幸せにすることができるテクノロジーを開発できたら、そのインパクトは極めて大きなものになる――。買い求めた本を読み進めるうちに興味が湧き、早速、本人に連絡をとり、ロサンゼルス郊外のリバーサイドにある教授の研究室を訪問。そこから、幸福の心理学が専門のリュボミルスキー教授とのユニークなコラボレーションが始まりました。

矢野氏が研究の拠点とする日立製作所の中央研究所(東京都国分寺市)

矢野氏が研究の拠点とする日立製作所の中央研究所(東京都国分寺市)

ハンガリー出身の心理学者で、クレアモント大学院大学のミハイ・チクセントミハイ教授との出会いも、大きな刺激になりました。彼は人間が行為に集中し、没頭することを「最適経験」と呼び、これを「フロー状態」と名付けました。私はこの「フロー」という概念を本で読み、そこに人間行動と幸せを結びつける鍵があるのではと直感し、早速、チクセントミハイ教授にメールで連絡をとり、会いに行きました。

このように加速度センサーを使って幸福度を測定する研究は、従来ある学問の垣根を取り払い、分野を横断したところから生まれています。考えてみたら、アインシュタインもニュートンもみな、複数の分野をまたいでいる。新しい分野を切り開くには、「これは物理学だ」「これは心理学だ」と垣根を作らずに、ものごとをトータルで広く見る姿勢が重要なんだと、再認識しました。

人間を幸福にするテクノロジーの開発へ

昨今のAIに関する議論を聞いていると、実態のない「イリュージョン」的な内容も多いと感じます。ある意味、妄想のような話も横行している。そんななか、最先端に乗り遅れまいと真剣になっている会社幹部の方々と日々の業務に追われている現場との乖離(かいり)も、大きくなっているようです。今は一種のブームですが、あと2年もしたら幻想は失望に変わり、その真贋(しんがん)が明らかになって"ニセモノ"は淘汰されていくでしょう。

何が真贋を分けるポイントになるかといえば、その技術が世の中にとってどんな意味を持つのかだと思います。AIのアルゴリズムをいかに詳しく語っても、AIについて語ったことにはならず、世の中にとってそれがどういう意味を持つものなのかまで語れないと、本当にAIを理解したことにはならない。

私たちの研究に関しても「いつまでそんなもうからないことをやっているんだ」という声は、多くありました。それを乗り越えられたのも、普遍的な「幸福」という概念に着目し、それを数値化して示すという社会的意義を明確にできたからでした。

組織全体としての幸福度とパフォーマンスの相関関係を数値で示すことができなかったら、「打率の高い4番バッターを集めたら、チーム全体の打率も高くなるに決まっているじゃないか」と言われても、反論できません。「いや、チームのムードも大切です」「休み時間の雑談でやる気が起きることもあるんですよ」と言っても、「休み時間なんて会社にいるうちの何パーセントだ、そんなものが全体のパフォーマンスに影響を与えるわけがないだろう」と言われれば、それでおしまいです。

一方で、現実には、組織の強さは単なる「足し算」で測れないことはみな実感として持っている。理論と現実との間にある乖離をそのままに、単純にパフォーマンスの低い人財を外し、それよりも優秀な人財を増やしたところで、組織全体のパフォーマンスが上がるとは限らないのです。

一連の研究結果を『データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』(草思社)という本にまとめたのは、2014年のことでした。以来、たくさんの講演やプレゼンテーションの機会をいただくようにもなりました。現在ではその数、年間500件にも上っています。

「仕事をする暇もありませんね」と言われますが、多くは企業幹部が相手で、人との出会いも重要な仕事のうちです。半導体の研究が打ち切られた時には、まさか、こんなことになるとは思ってもいませんでした。

人生、何が幸いするかわかりません。結果として、とても面白く仕事ができています。

矢野和男氏(やの・かずお)
日立製作所 研究開発グループ技師長 兼 人工知能ラボラトリ長
1959年山形県生まれ。84年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、日立製作所入社。93年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功。2004年から先行してビッグデータの収集・活用でけん引。論文の引用件数は2500件、特許出願は350件に上る。工学博士。米電気電子学会(IEEE)フェロー。東京工業大学連携教授。

(ライター 曲沼美恵)

前回掲載「『社内失業』のスーパーエンジニア 逆張り発想で活路」では、事業再編でそれまでの研究が打ち切りとなり、当時は"異端"とされた領域に活路を見いだすまでを聞きました。

「キャリアの原点」は原則木曜日に掲載します。

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