出世ナビ

私の履歴書復刻版

惻隠の情――今も福祉活動の原点 きらびやかさと無縁の行い サントリー2代目社長 佐治敬三(23)

2016/10/13

それはこんな原風景から始まったのかもしれない。雲雀丘の父の家の中庭がきれいに片付けられて、そこには石の臼が置かれている。出入りの若い衆が杵をとる。お手伝いさんにまざって私も餅を丸める役をうけもつ。出来上がった餅はむしろに広げられて乾した後、俵の中につめられる。きまって暮の29日であったかと思う。つきたての餅を地元の川西にすむ身よりのないお年よりにとどける。正月をむかえる人々への心づくしであった。

ほかには毛糸のももひきやシャツ、温かい正月のためのプレゼントがお餅といっしょにくばられる。

孟子曰く「惻隠の心は仁の端なり」と。父の行いはこの惻隠の情に発していたのではないか。そしてそれは再び今度は父の原風景にさかのぼる。

大阪の大川にかかる天神橋、天満の天神さんへのお詣りの帰りであろう。橋の上の両側には大勢のおこじきさんが並んでいる。私にとっての祖母(父にとっては母)に手を引かれた幼い父が、よりそっている。つと祖母は、その中の一人になにがしかの小銭を与える。と見る間に祖母は父の手を強くひっぱって、彼らの前から足早にたち去りながらこういう。「信治郎、うしろむいたらあきまへんで。ごりやくがのうなります。あの人たちのお礼をうけたらあきまへんのや」。知られることのない布施の行為こそが尊いのであるという祖母の教えを、幼い父は身にしみて感じた。それが父の骨肉と化したのである。

「施し」という言葉には抵抗を感じる人がある。たしかにいかにも、一種優越感めいた傲慢さがかぎとれないわけではないが、しかし惻隠の情に発した施しは、孟子のいう仁の端ではないか。幼い父の心にきざみつけられた惻隠の情が、長じて後の父の行いに色こく反映しているように思えてならない。

通称釜ヶ崎の一角に父が無料診療所を開いたのは、大正10年(1921年)のことであった。それは、戦後には戦争未亡人の母子寮となった。もとより数多い寡婦のほんの一部の方々が救われたに止まるかもしれないが、その行為を、だからといってさげすむことは許されまい。

時代が下って、今では母子寮は養護老人ホームとして大勢の老人の介護を主たる仕事とする福祉法人、邦寿会に姿をかえている。ちなみに邦は母クニの名から、寿は設立当時の会社の名称、寿屋によるものである。

大阪の小商人の次男として生まれた父が、社会への奉仕を心がけたのは、その母すなわち私の祖母の影響であった。後年の父は様々の施しを重ねてきた。利益三分主義を唱えて、その一分は社会にお返しすることを信条とした生涯をすごした。父の陰徳の対象は時に他愛ないものであったりしたが、それがかえって父の真情を示すものであったのだと今になって思う。

父はことに仲居さんや芸妓さんなどにはびっくりするほどやさしく、人の為に尽くす彼女たちにおしげもなく財布をはたいていた。社会への貢献などというと偉そうにきこえるけれども、もともとはこうした一人の人間の真情から発すべきものではないか。かつての個人が今では企業という無機的な存在に変わったことが、昨今のメセナをうさんくさくしていると思えてならない。

サントリーの社会への恩返しも、出来れば父のように一人の人間のやむにやまれぬ真情から出た活動としたいと思い続けている。私が“はじめに志ありき”というのはそんな意味である。サントリーの福祉活動はむしろ地味な活動が多い。最初の財団が戦前、昭和16年(1941年)の邦寿会という社会福祉法人であったことからも想像されるように、いわゆるきらびやかな文化とは無縁のところではじまっている。

この連載は、1993年4月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。

出世ナビ 新着記事

ALL CHANNEL