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リーダーのマネジメント論

高校中退、売上高1200億円 実業家の父から帝王学GMOインターネットグループ代表 熊谷正寿氏(上)

2016/10/4

リーダーのマネジメント論

インターネットの黎明(れいめい)期から、ネットベンチャーが集まる東京・渋谷の「ビットバレー」で活躍し、勝ち残っている企業は数少ない。その1社がGMOインターネットグループだ。創業者でグループ代表を務める熊谷正寿氏は起業から20年あまりで、連結売上高1200億円超の一大グループをなぜ築けたのか。そこには、実業家だった父親の色濃い影響があった。

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名門高校に首席入学するも中退

――起業のきっかけは何ですか。

「なぜ、自分が起業したのか。まず第一に、就職できるキャリアがなかったからです。私は高校2年のときに、私立国学院高校(東京・渋谷)を中退しました。国学院大学の付属校でしたから、そのままちゃんと卒業できていれば大学に入れたはずだったんですが」

「以来ずっと独学です。放送大学ができたときには『自分のための大学だ』と思い、1985年の春に1期生として入学しました。放送大学では、一定の期間内に一定の科目を履修すれば『学生』と認められるのです。私は目いっぱいの期間、在籍したので、かなり単位も取って正規学生になりました。そういう意味では大学で勉強したといってもいいのかもしれないけれど、高校中退のままで通しているんです。どちらにしても日本のシステムでは、とても就職できるようなキャリアではないですよ」

「中学生のときも全く勉強しないダメな生徒でした。高校進学では、女の子のいる共学で、華やかな青山あたりにあって、当時住んでいた東中野からあまり電車を乗り換えずにすむ――という学校を探しました。学校帰りのアフター5ならぬアフター3か4を考えた軟派な生徒です。ですから『高校は青山学院か国学院に行きたい』といったら、先生から『偏差値が高すぎて無理だ』といわれました」

「悔しくて猛勉強したら、何を間違ったか首席で入学してしまったんです。当時の校長に『君は東京大学へいってくれ』といわれました。ところが、『自分はやりゃできるんだ』と。元から勘違い野郎だったんだけど、本当に勘違いしちゃって1年間、勉強しなかったら成績が学年600人中500番台にまで落ちてしまいました。15か16クラスある中で一番勉強のできるクラスにいたのですが、成績が落ちて、居心地が悪くなってしまいました(笑)。加えて、厳しい校則に反発して、先生から目をつけられるようにもなっていました」

「そこで高校2年生の5月ごろ、親に退学届を書いてもらいました。『どうやって辞めてやろうか』と2、3カ月、毎日、退学届を胸ポケットに入れていました。『けんかして辞めるのは格好が悪い』と思い、何もないときに担任だった先生の授業で出すことに決めました。しーんとしている教室にいきなり歩いて行って『辞めます』と」

「心のなかで『あばよ』といいながら、一切振り返らずに校舎を出て、そのまま学校に行くことはありませんでした。『突然のほうが格好いいな』と思って。バカだよね。実はこの前、高校の同窓会で担任の先生に再会して、和解しました(笑)。会社を案内したら泣いて喜んでくれました」

父の背中、突然の家族

――高校を中退してどのように生計を立てたのですか

GMOインターネットグループ代表 熊谷正寿氏

「ディスコのDJなど、アルバイトをいくつかやった後に父の会社に勤めました。私の父は終戦後、一代で事業を立ち上げた人でした。旧満州(中国東北部)から兵役を終えて帰ってきたときに、軍から手に入れたものなのか、人工甘味料のサッカリンを使った汁粉屋を新宿伊勢丹の裏で始め、そこから映画館やパチンコ店、喫茶店やパブ、不動産に至るまで、いろいろな事業に手を広げていきました」

「父との会話は、私が小さいころから普通の会話ではありませんでした。例えば、レストランにいっても『正寿、ここの店の売り上げがわかるか。メニューの単価と、席の数を数えて、回転率を計算するんだ』といった話をするのです。そういう意味では事業家のトレーニングを知らずに受けていたのだと思います」

「だから、私は昔から父の会社を継いで社長になるつもりでした。ところが、自分が一人っ子だと思っていたのに、それぞれ母親の違う兄と、弟がいたことがわかりました。ただ、父をかばうと、オヤジは一生結婚しませんでした。大正8年(1919年)生まれの父と、今の基準とは違うかもしれないけど、3人とも母親が違うだけでちゃんと息子みんなの面倒をみました。ただ、私にしてみれば、長男だと思って父について学んでいたのに、跡取りじゃなかった。社長にもなれない、学歴も高校中退で就職もできない。消去法で自分で事業をやるしかなかったんです」

「私にとって起業は第2ラウンドの気持ちでした。父の事業を10年くらい手伝っていましたから。今、4900人の仲間がいて、グループ企業89社のうち上場企業が9社、さらにそのうち東証1部上場が2社あるところまできました。振り返ると、父との子供のころからの経験が、今にすごく生きているなと思います」

「以前、日本電産の永守重信会長兼社長と食事をしたとき、永守さんが『会社の裏にお母さんのお墓があって、そこでいつも手を合わせているんだ』とお話をされていました。私は自分の家庭環境を振り返って父を恨んだこともあったけれど、今は本当に尊敬しています」

新聞の小さな記事でインターネットに出会う

――インターネット草創期にネット事業に取り組みました。何がヒントだったのですか

「ネットのことを知ったのは、日経MJの小さな記事でした。本当ですよ(笑)。自分は子供のころから社長になると思っていて、20歳のときにはその思いが明確になっていました。趣味というと語弊があるけれど、雑誌や新聞で新しいビジネスチャンスについて情報収集する癖がついていました。事業を開始したのが95年の末ごろで、準備には1年以上かけているので、その記事を読んだのは93年か94年のことです」

「私は独学だったので、本や新聞ばかり読んでいました。『新聞に全てがある』というのは父の言葉です。私は20歳から株をやっていたので、新聞の株価欄を全部切り取って、手書きで自分でチャートを書いてました。オタクですよね」

「父の会社でパソコンを使っていたこともありますが、このチャート作りがきっかけでした。手書きでチャートを書くことに閉口していたんです。本屋で『パソコンを使って株をもうける本』という本を見つけてプログラミング言語の『BASIC』を使ってチャートを書くことを知りました。これだと思いました」

ビットバレーで生き残れた理由

――ネット草創期に誕生した企業のほとんどは残っていません。なぜ生き残れたと考えますか。

「私たちの会社は、ビットバレーから生まれたなかで生き残っている数少ない会社です。なぜか。おそらく私自身が『もうけよう』から『人を笑顔にすることが大切だ』と頭を切り替えられたからです。様々な業種を経て、優秀な大学を出た人たちが目をドルマークにして集っていたのがビットバレーです。ネットが錬金術的な要素があったのは否めません」

「2、30人のときなら『もうけよう』でも組織は動きます。でも、100、200人になってくると、『何で社長の金もうけに付き合わなければならないんだ、俺たちには俺たちのやりたいことがあるんだ』となる。ましてやそのような考えでは1000人を超える組織には成長できない。ナンバーワンの商品やいいサービスを作り、世の中が便利になって、関わっている仲間たちも多くのお客様に喜んでいただいて誇りを持つことが、人としての存在意義なんですよ。結果としての利益です。こう思えたときに、全ての心の矛盾が解決しました」

「人間に寿命がある限り、時間は命そのものです。つまり『仕事を何と引き換えにしてやっているか』ということなんです。お金と引き換えにしているのか。給与がいいからあの会社にいくのか、目先のことだけ考えている人は、お金と命を引き換えにしています。私は、そういう人生は嫌なんです。20代のころはお金がなかったし、お金と自分の引き換えをしていたかもしれない。けれど、この20年、『もうけよう』という言葉は一度も使っていません」

「手ごろな値段で一番性能がいいものでなければ売れない時代になりました。ネット時代の今、丸見えの時代なんです。商品を、手元にあるスマートフォン(スマホ)で簡単に、無料で比較できる時代です。だから一番いいものを作るしかない。わかりやすいのはレストランですよね。お店の味やサービスがどうかわかってしまう。ありとあらゆる角度で一番を出さなければならない時代になりました。私はこのネット時代をとてもいいなと思っています。だから、ネットの仕事は天職ですね」

熊谷正寿氏(くまがい・まさとし)
1963年生まれ。91年ボイスメディア(現GMOインターネット)設立。95年からインターネット事業を開始し、99年に独立系インターネットベンチャーとして国内初の株式店頭公開。2005年東証1部に市場変更。

(松本千恵)

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