P・フランクルさん 自分をさらけ出す大切さ学ぶ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は数学者のピーター・フランクルさんだ。
――故郷のハンガリーで、両親とも医師という家庭に育たれました。
「2人とも皮膚科医で、患者の病を根治するためには原因になった生活環境を調べる必要があると考えていました。特に入院患者を担当していた父は、彼らとたくさん話をして探っていました。皮膚科の患者は包帯を変えるなどの処置をしていれば元気な人が多かったので、父はよくそんな患者を家に連れて帰ってきました」
「母が作った料理を患者を交えて食べるのも珍しくありませんでした。食事のとき、父は患者が自分の家族や仕事についてたくさん語れるように、どんどん質問しました。農家や猟師、運転手、工員など、様々な職業の人の生き方や考え方から、私もいろいろと学ぶことができました」
――ご両親とも第2次世界大戦中には、ナチス・ドイツの強制収容所で悲惨な体験をされたのですね。
「母は小学生の頃、ユダヤ人だからと毎日いじめられていたそうです。高校生の時、家族とアウシュビッツに送られ、母だけ生還しました。働きながら復学し医学の道へ進みました。母は経験を晩年まで語ろうとしませんでした。18歳年上の父が強制収容所で九死に一生を得たのは、医師として必要とされたことと、陽気で周囲と良い人間関係を築いていたからです」
――2人は人の怖さを知り尽くしていながら人を愛し、周りの人を大切にしていた。
「夏の週末、私たち家族は別荘で過ごしていました。母は家族のために料理や庭の手入れなどをしていて、その間に父は僕を連れて知り合いの家をまわりました。どこでも歓迎され、ベランダに座りながら話に花を咲かせました。次の家まで歩きながら、父はその家族のことを詳しく僕に教えてくれました」
――日本で暮らすと決めた時、何と言われましたか。
「父も母も、どんなに財産があっても何の役にも立たなかった戦争の教訓から、真の財産は頭と心にあると信じていました。だから日本の言葉と文化をよく学び、地元の人々と温かい人間関係を築きなさいと言われました。私は大勢の日本人に優しくされ、ユダヤ人として差別を受けたことはありません。日本を選んだのは正解でした」
「それでも日本人が家族ぐるみの付き合いをしないことを残念に思います。あまり自分をさらけ出したがらず、片付いていないことを言い訳に他人を家に呼ばない。同僚や友達と食事をする時もレストランで終わらせている。今の核家族で、これでは子どもたちが親や先生以外の大人と触れ合う機会がなくなります。親の言うことを聞いてくれない子どもでもほかの大人の話には素直に耳を貸すことがよくあるのに、もったいないと思います」
[日本経済新聞夕刊2016年9月27日付]
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