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現代アートのうねりは、経済のうねりと連動している。「1980年代半ばくらいまで、世界のアート関係者は日本に注目していた」と、森美術館館長の南條史生氏は振り返る。各地に次々と美術館が建設されていったのも、そのころ。南條氏を含め、美術史を学んだ学生たちは次々とそこへ吸収されていった。

◇   ◇   ◇

美術界には「慶応マフィア」という言葉があります。バブル経済華やかなりしころ、美術界でそれほど一気に慶応義塾大学出身の美術関係者が増えた時期がありました。考えてみたら、僕もその流れに乗っていたのかも。日本の現在美術を初めて海外へ送り出したのも、僕でした。

もっとも、渦中にいた頃は、「今はバブルだ」なんていう認識はありませんでした。ただ単に、美術が好きでやっていただけのことです――。

旅行雑誌の仕事でドイツのカジノを取材

森美術館館長 南條史生氏

森美術館館長 南條史生氏

美術の仕事に就く前は出版に携わっていました。学生のころから学費の足しにしようと旅行雑誌の編集を手伝っており、辞める直前には副編集長にまでなっていました。編集の仕事も、それなりにおもしろかったんです。ある日突然、出版社の社長からポンと大金を渡されて、「ドイツへ行ってカジノの取材をして来い」と言われたこともありました。

ドイツのカジノは米国のそれとは違い、富裕層たちが集う洗練された社交場です。「クアハウス」と呼ばれる、18世紀の宮殿のような湯治場も併設されています。レストランやコンサートホールなどの文化施設もある。それらの写真を自分で撮り、取材をし、広告までとってきました。その時は、60ページくらいのカジノ特集をほとんど1人で書きました。

取材の際には、必ずニコンのカメラを2台、出張の際は、それに加えてレンズを3本持って行きました。当時のカメラは重くて(笑)。カメラバッグのせいで肩をおかしくしたこともありました。今も、写真は趣味で続けていますし、当時の経験は文章を書いたり、美術展の図録をつくったりする際に役に立っています。

友人から「国際交流基金が美術の専門家を探している」と教えられなければ、あのまま編集の仕事を続けていたかもしれません。未練はありましたけれど、せっかく美術を志したのだし、それに関係する仕事に就きたいと改めて考え、国際交流基金の採用試験を受けたら、合格しました。

いざ国際交流基金へ就職

国際交流基金は72年に外務省所管の特殊法人として設立され、現在は独立行政法人になっています。その柱となる事業のひとつに文化芸術交流があり、当時から、国内外での美術品の展示なども手がけていました。

ところが、当時は事業部の中に美術の専門家がひとりもいなくて、海外の展覧会に出品する展示物を借りる際に、職員が風呂敷を持って引き取りに行っちゃうようなことをしていました。それでは困るということになり、いわば学芸員にあたる専門家を3人採用した。そのうちの1人が僕でした。基金には78年から86年まで勤務することになります。

最初の5年間は公演課というところで演劇を担当し、途中から展示課へ異動して美術を担当するようになりました。展示課に入ってしばらくして、84年のベネチア・ビエンナーレを担当。次に、英オックスフォードの日本現代美術展を担当しました。この時、英国の若手キュレーター8人を日本へ招へいしたのですが、そのうちの1人に、当時、オックスフォード近代美術館の館長だったデヴィッド・エリオットがいました。彼はのちに森美術館の初代館長に就任し、僕は副館長として一緒に仕事をすることになります。

デヴィッドを館長に選んだのは、2012年に亡くなった森ビルの前会長、森稔さんです。森さんはヘッドハントの会社を通じてデヴィッドを知ったため、その人選に、僕は関与していません。ですから、デヴィッドが館長になると知った時は内心、僕に言ってくれれば紹介したのにな、と思ったものです。

知られざる世界の美術館事情

初代館長を外国人にするのは、森さんの念願でした。外国人で日本の美術館の館長になってくれる人間を探すとしたら、たしかに、デヴィッドくらいしか可能性はなかったでしょう。

欧米で現役の美術館館長といえば、かなりのポジションになります。それをなげうってまで日本に来たいと思う人は、まずいません。美術館のキュレーションというのは文化的コンテクストに左右されますから、知らない土地で館長をやるというのは、かなりのリスクを負うことにもなる。うまくいかなければ契約期間満了と同時にクビになる世界でもありますから、当然、転職には慎重にもなる。

じつは、同じ美術館の館長と言っても、欧州と米国ではタイプが違います。欧州は美術専門家の「キュレータータイプ」、米国は経営に軸足を置いた「マネジャータイプ」が多い。米国の館長は億単位の高額な報酬をもらっていますが、そういう人はたいてい、報酬の数倍以上の寄付金を集める人脈と力を持っています。

欲を言えばキュレーションとマネジメント、両方得意な人が館長になってくれるのが望ましいのでしょうが、そんな人はザラにはいませんから、適任者が見つからず館長不在のままという美術館も米国にはけっこうあります。

米国の美術館にはたいてい運営に関与する理事会組織があり、そこに不動山王のドナルド・トランプさんのような富裕層が10人くらいいる。館長はその人たちの意見を聞きながら運営しないといけませんから、振り回されて大変なんです。

森美術館の場合も寄付金は集めていますし、来場者を増やさなくてはならないプレッシャーは当然あります。ただし、運営に関していえば、米国型よりも欧州型に近いと思います。

米国の美術館関係者はそもそも、企業が美術館を持つということに関して極めて批判的です。どの美術館も膨大な寄付金を集めて成り立っていますから、企業が自分たちで美術館を建ててしまうと、寄付金をもらえなくなってしまう。そんなお金があるのなら、国立・公立の美術館に寄付してほしいと多くは考えています。

これに対し、日本の場合は美術品を大量に所有している企業のオーナーが私設の美術館を開設するのは珍しくありません。企業が成功し、規模が大きくなれば、その社会的責任を問われる時期が必ずやってくる。「善き社会の一員である」ことを表現するのに、美術館を建てることは非常に有効な手段のひとつにもなっています。

森さんは文化を中心とした街をつくりたかった

森美術館は六本木ヒルズ森タワーの最上階53階に位置する

森美術館は六本木ヒルズ森タワーの最上階53階に位置する

僕が森さんと出会ったのは1999年ごろのことでした。すでに美術館の構想があり「意見を聞きたいから」とたびたび呼ばれて、森さんや山本和彦専務(当時)と、美術に関する話をしていました。

そのころ、僕は国際交流基金を辞めてフリーランスのキュレーターになっていましたから、立場的にはそんなに偉くありません。森さんとしてはおそらく、「おもしろそうだから呼んでみよう」くらいの感覚だったんじゃないかな、と思います。

こちらは森さんがどれくらい美術について詳しいかわからないから、美術界の基本的な事柄まで話そうとすると、怒るんですよね。「そんなことは知っている!」と。だったらこれも知っているのかなと思って話すと、意外と知らなかったりして(笑)。何を知っていて、何を知らないか、がさっぱりわからない。

森美術館が現代アートを対象とすることに関しても、「確実にお客さんが入ると言われる印象派の美術館でなくてもいいんですか?」と聞いたら、しばらく考え込んでいましたけれど、「現代アートじゃなきゃダメなんだ」と言われました。現在進行形の街である六本木ヒルズには、すでに評価の定まった古典的絵画よりも、同時代を生きるアーティストの作品がふさわしい、と考えたようです。

そんな風にしていたある日のこと。僕が2001年の横浜トリエンナーレを担当することになりました。この時、森ビルのサポートを受け、赤レンガ倉庫の前で2000人くらいを集めたレセプションを開きました。

森さんの資金を元手に、横浜の飲食関係者に屋台を出してもらいました。そこにVJ(クラブやディスコなどで映像を流す人)やDJを呼んできて、赤レンガ倉庫の壁にプロジェクションマッピングをし、前夜祭のパーティーを開いた。それをきっかけに森さんとの関係も深まり、森美術館のオープンを手伝うことに。準備段階からスタッフとして加わり、そのまま副館長に就任しました。

森さんといえば、こんなエピソードもあります。いつだったか、英国王立芸術院(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)が、ロンドンで世界の高層ビルばかりを集めた建築の展覧会「トールタワーズ」を開いたことがありました。それを聞いて、みんな「これは森さんも喜ぶだろう」と思ったわけです。僕も下見まで行った。

ところが、いざ森美術館の展覧会として提案したら、森さんが難色を示しました。理由を聞くと、こんなことを言いました。

東京のように都市圏が際限なく広がっているような都心の中心部では建物を高層化してオフィスや住宅などの都市機能を集約し、高密度化していく必要があるけれども、人口が少ない中規模の街では解決策は違うかもしれない。世界中、どこの街でも同じでいいわけではない、という。

「ビルは高ければいいという人間だとは思われたくない」と、森さんは思ったんでしょう。あれは意外でしたし、とても印象に残っています。

南條史生氏(なんじょう・ふみお)
1949年東京都生まれ。72年慶応義塾大学経済学部卒、大手信託銀行入行、73年退行。76年文学部哲学科美学美術史学専攻卒。国際交流基金などを経て2002年開館準備室から森美術館副館長、06年から現職。ベネチア・ビエンナーレなど国際展のディレクターや審査員を歴任。07年、美術を通じた国際交流への功績で外務大臣表彰。16年6月、仏政府から芸術文化勲章「オフィシエ」。近著に『アートを生きる』(角川書店)がある。

(ライター 曲沼美恵)

前回掲載「アートで食える? 慶応経済卒の銀行マン、なぜ転身」では、新卒で銀行に入ったものの、アートへの思いを断ち切れず大学に戻った人生の転機を聞きました。

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