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半世紀以上続く日本経済新聞朝刊文化面のコラム「私の履歴書」。時代を代表する著名人が半生を語る自叙伝は、若い世代にどう響くのだろう。1962年に掲載したホンダ創業者の本田宗一郎さんの「私の履歴書」を、ちょうど80歳年下にあたる「元ヤンキー」で米国の名門カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)を卒業した鈴木琢也さんに読んでもらった。

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本田宗一郎氏

本田宗一郎氏

【本田宗一郎 ほんだ・そういちろう】1906年静岡県、鍛冶職人の家庭に生まれる。22年小学校高等科を卒業、自動車修理工場で見習工として働く。46年本田技術研究所設立、48年本田技研工業(ホンダ)設立、社長に就任し、一代で世界有数の自動車メーカーに育て上げた。73年に社長退任、91年に84歳で死去。

【鈴木琢也 すずき・たくや】1986年川崎市生まれ。中学生のころ、素行が荒れ暴力を繰り返す不良少年、いわゆる「ヤンキー」の仲間入り。高卒でとび職になる。その後、IT系資格を取得して上場企業に転職。さらに一念発起し、2013年にUCバークレーへ進学。15年卒業、人材育成支援のグロービス(東京・千代田)入社。マネジメントスクールの運営などを担当。著書に「バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。」(ポプラ社)がある。

厳しい道が自分を成長させる

今まで、私は厳しい道があったら、常にそっちを選んで進んできました。「厳しい道のほうが好き」というわけではないのですが、魅力的に見えます。私が大学に行こうと思ったとき、レベルの高さを重視していたわけではありませんでしたが「高いところに行った方が将来おもしろそうだな」と思ったのです。

グロービス経営大学院 スチューデントオフィス アソシエイト 鈴木琢也氏

グロービス経営大学院 スチューデントオフィス アソシエイト 鈴木琢也氏 

米国に最初に行ったとき、私は英語を全く話せませんでした。義務教育時代に勉強をさぼっていて、社会に出てからとても苦労しました。かつては難しいことをなるべく避けていましたが、留学をしたことで、難しいことも頑張れば乗り越えられることがわかりました。しかも、乗り越えた瞬間は充実感に満ちています。やっている瞬間は苦痛ですが、長い目でみたら勉強したほうが良かったと、今では本当に思っています。

渡米してから語学学校で1日14時間は勉強しました。グーグルカレンダーで勉強をした時間は「黄色」、勉強とは関係ない時間は「赤色」、勉強ではないですが、学びにつながる時間は「青色」に塗って、時間を徹底的に管理しました。

UCバークレーの3年次編入試験に合格したときは、何度も何度も「合格」の表示がコンピューターのエラーではないかと確かめたほどでした。

――私の履歴書から
 つねづね私の感じていることは、性格の違った人とお付き合いできないようでは社会人としても値打ちが少ない人間ではないかということである。世の中には親兄弟だけで会社を経営して、自分勝手なことをするような会社があるが、人材は広く求めるべきもので、親族に限っているようではその企業の伸びはとまってしまう。本田技研の次期社長は、この会社をりっぱに維持、発展させうる能力のある者なら、あえて日本人に限らず外国人でもかまわないとさえ思っている。
(本田宗一郎「私の履歴書」第11回)

本田さんは「人材は広く求めるべきだ」と書いています。日常生活の中で、どうしても同じスキルをお互いに争ってしまう部分ってあると思うんですよね。相手に勝つために、蹴落とすこともあるかもしれません。でも、それって本当は面白くないと思うのです。「自分の得意分野をどれだけ伸ばすことができるか」に力を入れるほうが楽しいのではないでしょうか。そして、チームの中で「お互いの得意分野を伸ばすことができる空気」をつくることができる人が、理想的なリーダーではないのかな、と私の中では思っています。人が、それぞれ違った技術や得意分野を生かしたチームって面白いと思うんですよね。UCバークレーの経験でも、そう思うようになりました。

UCバークレーは不良コミュニティーに似ていた!

UCバークレーでは「自分の好きなことは知っているけれど、あとは教えて!」というスタンスで皆が共存しています。一人ひとりがユニークであることに価値が置かれているので、「となりに座っている人が自分と同じような価値を持っているはずがない」という考えを基本的に持っています。「自分は知らない」ということを前提にしているので、どんどん質問します。実際に、講義には年齢も人種もさまざまな人が参加していました。

「移民として2人の子供を育て、やっと自分の時間ができたので大学にきました」という50歳代のメキシコ人女性や、「フリーランスで美術デザイナーをしています」という30歳代の男性など、私がイメージしていた大学生とは違う人がたくさんいました。多様なバックグラウンドをもつ個人が、それぞれの立場から率直な意見を出すと、普段は気づかない固定観念や偏見があぶりだされるのです。そのことによって、自分ひとりでは想像がつかなかったような考えが生まれることが本当に面白かったです。

意外なことに、ここは不良コミュニティーにも似ていました。「自分は何も持っていないけれど、欲しいモノは欲しい」とか「おまえあれ得意だからこれやれよ、俺はこれやるから」といった感覚がありました。だからこそ、あまり抵抗がなくこうした環境にもなじむことができました。

大量の課題図書は、情報収集の訓練

UCバークレーではとにかく、すごい数の本を読破することが求められました。私は専攻分野の政治経済や哲学、歴史を主に勉強していて、ひとつのクラスの課題図書は、平均で6冊から8冊でした。しかもこれを「週末に1冊読んでおくように」と、当たり前のように言われます。みんなが平然としているので、教室では私も平静を装いましたが、内心はとても驚きました。

教授からは「君たちは将来、課題を解決するために情報を収集しなくてはならない。そのときに、図書館の本を全部読むことはできない。限られた時間の中で、どう情報を選択するかの訓練が必要だ。だからこそ、あえて大量の読書をさせます」と言われました。こうした過程の中で「知識を持つことには限界があるから、協業することが大切なのだ」ということを学んでいくのです。

つまり、勉強すればするほど「全部を知る」ということは不可能だ、ということを悟ります。知らないことは、悪いことではないのだということに気付くことができました。膨大な量の本の全部は読めないので、結果的には大切なところをピックアップしながら読んでいました。例えば、この章はきちんと読むけれど、ここは読まないとか。

UCバークレーでは、とにかく分からないことだらけでした。それを「知らない」と言えるか言えないかでは、自分の成長度が大きく違ったと思います。

米国で知り合った日本人は、日本社会の中でのいわゆるエリートコース出身の人が多くて驚きました。彼らは米国の大学で、個人ではなく、チームで勉強するということに驚いていました。そして「知らないことは怖い」という感覚を持っていました。私は、彼らと話していて「知らないことがあるのは恐怖」という感覚をはじめて知りました。私が入っていた日本の不良コミュニティーでは、「自分はあまり知らない」ことが当たり前でした。

中学や高校の私の仲間には漢字が読めない人がたくさんいました。例えば、車とかに乗っていて、一人が「あんなところにゼニユがある」って言うのです。「ゼニユってなんだっけ? あ、おまえそれ銭湯(せんとう)だべ」みたいな感じです。知らないことを怖がらない感覚は、私の場合は「不良時代」に培ったのだと思います。

逃げ出さず、筋を通して行動する「度胸」

――私の履歴書から 「冗談じゃない。モーニングだけが礼服ではない。われわれにとっては、ふだんの仕事着こそ最もりっぱな礼服であるはずだ。もしモーニングでなければいかんというなら、そんなものはいらない」とゴネた。担当の通産省のお役人は困ったらしい。「私の方でなんとかモーニングをそろえておくから、当日はぜひそれを着て出席して下さい」と頼まれた。
 本心はモーニングがないからゴネただけのこと、そこまで言われては着て行くよりほかない。当日は藤澤専務がくめんしてくれた窮屈な借り物のモーニングを着用に及んで出かけた。私がモーニングを着たのはこれが生まれて初めてだった。だが、そのときの記念写真はなかなかピッタリととれていて、とても借り着とは思えない、よく似あうと知人に笑われた。
(本田宗一郎 「私の履歴書」第12回)

ほかにも、不良コミュニティー時代に学び、役立ったものとして「度胸」があります。「けんかを売られたら逃げるな、筋をちゃんとつけて行動しろ」というのが不良グループのおきてでした。

自分で「しっかりと勉強する」と宣言しているのに、していなかったら仲間に突っ込まれる。みんなは大体ビッグマウス(大言壮語)なので、私も目標は言うだけ言って、あとは行動で合わせていました。だからこそ「一流大学に行く!」と宣言した以上は、「絶対に合格して卒業しないと、みんなに合わせる顔がない」という思いを常に持っていました。

「次に琢也が帰るまでに、俺らも何かしらの『達成』をしていないと会えないよね」。私が何度か帰国してみんなに会った後、当時の仲間たちはそう話していたそうです。そのことを聞いたときはうれしかったですね。「留学して、理屈っぽくなった。『なぜ?』ってそんなに聞くな! 細かいことはいいんだよ!」と笑われたこともありましたが。

(聞き手は雨宮百子)

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前回掲載「元ヤンキーもあぜん!ホンダ創業者の『やんちゃぶり』」では、若き日の本田宗一郎氏に自らを重ねて語ってもらいました。

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