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1956年から60年以上続く日本経済新聞朝刊文化面のコラム「私の履歴書」は、時代を代表する著名人が1カ月の連載で半生を語る。かつて書かれた「私の履歴書」を若い世代が読んだら、響く言葉はあるのだろうか。今回は1962年に掲載したホンダ創業者の本田宗一郎さんの「私の履歴書」を、「元ヤンキー」で米国の名門カリフォルニア大学バークレー校を卒業した鈴木琢也さんに読んでもらった。

◇   ◇   ◇

本田宗一郎氏

本田宗一郎氏

【本田宗一郎 ほんだ・そういちろう】1906年静岡県、鍛冶職人の家庭に生まれる。22年小学校高等科を卒業、自動車修理工場で見習工として働く。46年本田技術研究所設立、48年本田技研工業(ホンダ)設立、社長に就任し、一代で世界有数の自動車メーカーに育て上げた。73年に社長退任、91年に84歳で死去。

【鈴木琢也 すずき・たくや】1986年川崎市生まれ。中学生のころ、素行が荒れ暴力を繰り返す不良少年、いわゆる「ヤンキー」の仲間入り。高卒でとび職になる。その後、IT系資格を取得して上場企業に転職。さらに一念発起し、2013年にカリフォルニア大学バークレー校へ進学。15年卒業、人材育成支援のグロービス(東京・千代田)入社。マネジメントスクールの運営などを担当。著書に「バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。」(ポプラ社)がある。

受け入れてくれたのが、不良コミュニティーだった

――私の履歴書から
 大正3年(1914年)の秋、私が小学校2年のときだった。約20キロほど離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んでみせるという話を聞いた。私はそれまで飛行機というものを絵では見ていたが、実物はまだ見たことがなかった。なんとかして見たいものといろいろ考えたすえ、父にせがんだところでどうせ許してもらえないと思った私は、その数日前、家族の目を盗んで「金2銭也」をせしめ、軍資金を準備した。
(本田宗一郎「私の履歴書」第1回)

本田さんの履歴書を読んで一番思ったのは、「わんぱくな少年だったのだな」ということです。「飛行機がくるから」と学校をさぼって自転車で飛び出してしまうところなど、「本当に思いが強い人なのだな」と感じました。私も、もし本田さんと同じ時代に生きていたら近いことをするかもしれません。本田さんのような少年と一緒に遊んでいるタイプだったと思います。

グロービス経営大学院 スチューデントオフィス アソシエイト 鈴木琢也氏

グロービス経営大学院 スチューデントオフィス アソシエイト 鈴木琢也氏 

私は小学校では友達をうまくつくれませんでした。私がわんぱくすぎて、他の子供たちはおとなしい子が多かったからです。なかなか友達ができず、次第に内向的になっていきました。でも、本音では友達がほしかったのです。

そんな中で「ありのままのやんちゃな自分」を受け入れてくれたのは不良コミュニティーでした。中学生になって加わりました。そこでは何かしでかすと、「お前やるな!」といった反応がすぐにかえってきます。そして、不思議な絆が生まれるのです。

とはいっても中学生のやることなんて、たかが知れています。髪を染め、タバコを吸って、イキがって誰かにけんかを売るなどです。当時はイキがっていることが楽しかったし、何よりも自分のキャラが確立することで、仲間ができることがうれしかったのです。

――私の履歴書から
 だが芸者相手にいま考えるとぞっとするようなたいへんなことを仕出かしたこともある。浜松では毎年5月に「たこ祭り」が行われるが、そのお祭りの日に私は友人と2人で料理屋で芸者相手に飲めや歌えの大騒ぎをしたことがある。芸者もこっちも相当酔っぱらっていたが、そのうちに芸者がちょっとなまいきなことを言った。われわれ2人はそれをとがめて「このなまいきやろう」と芸者を料亭の2階から外へほうり投げてしまった。その瞬間、パッと火花が飛んだ。
(本田宗一郎「私の履歴書」第6回)

それにしても本田さんのやんちゃぶりはすごいですね。この時代は許容範囲が広かったのでしょうか。

幸いなことに芸者さんは無事で、「いまだに頭があがらない」と本田さんも履歴書の中で語っていましたが、私の不良時代は「これくらいやるとこれだけやり返される」というボーダーラインが常にありました。

「2階から人を投げちゃったら死んでしまうかもしれない」という感覚を超えてしまった本田さんというのは「ちょっと発想が違うな」と思います。「ぶっ飛んでいる」とでもいうのでしょうか。

私もけんかで顔面を殴りつけたり、デッキブラシで殴られたりすることはありましたが「この辺を殴ったらここ折れるよね」とかは分かっていたつもりです。本田さんが人を投げたエピソードは「ここまでやったらちょっとまずいでしょ」と思いながら読みました。

試行錯誤を続ければ、最後には認められる

こんなにやんちゃをしていた人が試行錯誤の末、最終的に経営者にまでなったということには勇気をもらいました。失敗にもめげなかったからこそ、すごい人になったのだと思います。試行錯誤を繰り返して生きていけば、最後には周りからも認められる人になるのかもしれないな、と思うことができました。

最初からなんでもできるタイプであれば「この人は生まれた時から天才で、自分とは遠い」と思ってしまいます。でも、本田さんは、悪いことや失敗をしながらも、そこから学んでいます。そういう姿が履歴書の中で描かれているからこそ、「自分も頑張ろう」と思えました。

――私の履歴書から
浜松高工(現、静岡大学工学部)の聴講生としての私は、ダットサンで通学しはじめた。先生方は歩いて登校しているのに、生徒の私は自動車だったからたちまち評判になった。だが講義の方は、他の生徒が全部先生の言うことをうのみにして筆記しているのに、私の頭はピストンリングの研究とその成功をはかることでいっぱいだったから、あそこで失敗したのはこれだな、こうすればいいんだなといった調子で話を聞くだけでメモはとらない。試験の日になると休んで受けなかった。そこでとうとう2年たったある日、退学を言い渡されてしまった。
(本田宗一郎「私の履歴書」第8回)

私は高校卒業後、とび職になりました。1年たったころ、中学時代の元ヤンキー仲間と居酒屋に集まり「将来のこと」について話した時のことです。「人生一度きりだから、やりたいことをやろう」などと話しながら、実は「自分にはやりたいことがない」ことに気づき、衝撃を受け、悩みました。本田さんが学生時代にあまり勉強をしていなかったのには驚きましたが、「やりたいこと」があったのは私とは大きな違いです。

また、生命保険会社に16年間勤める父親が、業績優秀者としてハワイで表彰される式典に家族で招待されたことも、大きな転機になりました。中学時代は散々反抗したし、ひどい悪態もつきましたが、ゴールドの盾を大事そうに抱えながら私の前を歩く父は大きく見え、誇らしく感じました。

父は、成果を出せぬまま数年で辞めてしまう人が圧倒的に多い業界で、苦しい中からはい上がって勉強を続け、記録的な成果をあげていました。式典にいた人たちからは、仕事に対する情熱がビンビン伝わってきて、その姿がとても魅力的に見えました。

こうしたことをきっかけに、私は自分の中で「お金を稼ぐ手段」であった仕事に対しての気持ちが「充実した仕事をしたい」という思いに変化しました。そのためには、勉強が必要だと感じ、2年間で資格取得をめざす専門学校に進むことを決めました。

「学ぶ力の強さ」を求めて

四則演算で計算の順序が変わるということを知らないほどでしたが、がむしゃらに勉強して何とか情報処理の国家試験に合格、IT(情報技術)系上場企業の営業職に転職できました。配属されたのはエンジニア派遣などを手がける部署でした。先輩たちは地道に足で稼ぐ泥臭いスタイルの営業マンが多く、「これならなじめそうだ!」と思えました。

社会で色々な人と仕事をするなかで、私は「デキる人は、『学ぶ力の強さ』を持っている」ということに気づきました。そして、そうした力の多くは学校生活や受験勉強の中で養われるように感じ、「勉強していく力がほしい」と思うようになりました。

父から「せっかく勉強するなら、勉強だけに専念したほうがいい」とアドバイスを受け、仕事を辞めて大学に進学することを決意しました。

とはいえ、いざ参考書を読んでみると、さっぱり内容がわかりません。何年たっても卒業できないと思い、まずは5年で卒業するというタイムリミットを決めました。そして、調べていると海外の入試制度が目に留まりました。学力だけではなく、人柄や過去の経歴も含めて総合的な力で判断するアドミッション・オフィス(AO)入試という制度です。

もちろん、英語が話せることが前提ですが、カリフォルニア州では編入制度が充実していて、2年制の短期大学から4年制大学に3年時から編入できる仕組みがありました。その制度で進学できる編入先のトップ校がカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)だったので、「この方法しかない」と思い、挑戦しました。

(聞き手は雨宮百子)

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