俳優・岡本信人さん 父の応募、子役段々面白く
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の岡本信人さんだ。
――ご両親は戦前、中国東北部におられたそうですね。
「父は建築設計事務所で働いていました。助産婦だった母とは現地で結婚しました。父は終戦間際に召集され、敗戦後はシベリアに抑留されました。母は姉と兄を連れ、引き揚げたと聞いています」
「2年ほどたって父が帰国。父の兄を頼って山口県の岩国で暮らしました。抑留生活がたたってか、父は結核を発症、闘病生活は10年ほどに及びました。母は看病で日中はほとんど病院でしたし、物心ついた私の記憶にある父は、いつも病院にいました」
――お父さんから言われた印象的な言葉はありますか。
「細かいことをとやかく言われた記憶は無いですが、唯一『建築家になれ』と言われました。父が中国で築いた財産は全て奪われたそうですが、『技術だけはとられないんだ』と言っていました。図面を引く背中を見て育ったので、私もいずれ建築家になるのだろうと思っていました」
――その後、お父さんも回復され、横浜に引っ越されたそうですね。
「小学校6年生の3学期に入る直前、あと少しで卒業というときでした。そして新しい環境にも慣れた中学2年で、父の仕事の都合で東京の世田谷区に転校しました。なかなか周囲になじめず、私は段々元気がなくなりました」
「そんな私の様子を見かねて、父が新聞に出ていた児童劇団の募集広告に応募したんです。仲間ができればまた元気になるだろう、ぐらいの考えだったのでしょう。入団テストを受けろと言われ驚きました。父に逆らえず、自分の居場所がないこともあって受けたところ、合格でした」
――その後、子役として出演作品が増えていきます。
「嫌々ながらも始めると、段々面白くなりました。ところが高校2年の終わりに父から『劇団はもう辞めろ』と。せっかく楽しさが分かってきたのにと思いましたが、父の思いをくんでやめました」
「ですが、高校3年になり、以前に出演した番組の放送作家からオファーをもらい、その場でつい快諾してしまいました。『将来は建築家になるけど、まだちょっと俳優をやりたい』と、初めて父にたてつきました」
――大学入学後は長期のドラマに出演するように。
「学業との二足のわらじを履くと約束しましたが、両立は難しかったです。就職しなかったことで、建築家への道はもうダメだと思ったのでしょう。父は何も言いませんでした。俳優として認めてやろうとの思いも半分はあったのかもしれません」
「闘病や引き揚げ経験のある両親に学んだのは、貪欲に一途に生きるということ。一つの道を諦めずにやり続けてきたことで、たとえ他の道に行くことがあっても大丈夫だという自信があります」
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