研究:バナナマン 「色がない」芸人だから万能・最強

左/設楽統(したら・おさむ)1973年4月23日生まれ。埼玉県出身。右/日村勇紀(ひむら・ゆうき)1972年5月14日生まれ。神奈川県出身。(写真:中村嘉昭)

バナナマンはよく、「色がない」芸人だと評される。大ブレイクのきっかけもないまま、気がつけばテレビレギュラー数No.1の座にまで上り詰めたためだ。(関連インタビュー記事:バナナマン レギュラー番組数No.1コンビになるまで

94年のデビュー後は精力的にライブ活動を展開。凝ったストーリー性と抜群の演技力で引き込むコントは、業界内での評価は高かったものの、全盛だった『ボキャブラ天国』など、インパクト重視のお笑い番組には縁がなかった。

そんななか、05年前後に若手芸人ブームが来る。ブラックマヨネーズやタカアンドトシら同世代の芸人が台頭するなかで、バナナマンにも声がかかるようになった。しかし、20年来の仕事仲間である放送作家のオークラ氏は、「テレビに出たての設楽さんは、発言があまり響いていないと察しては、よく小首をかしげていたんです」と振り返る。所属事務所に先輩芸人がおらず、助言を受けることも少なかった彼らは、自ら試行錯誤を繰り返すしかなかった。だがその結果、場の空気を察知し、求められていることに応える抜群の対応力を身につけることとなった。

デビュー当時から、ライブシーンでは一目置かれる存在だった。「お笑いは寄席みたいな形のライブが多かったなかで、いち早く単独ライブをやったんです。“コントの怪物が現れた”と噂になりました」(オークラ氏)

最初の浮上のきっかけとしては、「『リンカーン』で日村さんがギャルとパラパラを踊った「世界ウルリン滞在記」(06年)が決め手になったと思います」(オークラ氏)。この企画でダウンタウンが大笑いし、追い風となった。天才肌のコント職人で「テレビはやらない」と思われがちだったバナナマンのイメージが、「いじっていいんだ」というものに変わった。

テレビ界は次第に、キャリアのある芸人が、若手を使ってバラエティーを展開する流れになる。現在、『バナナスクール』(東海テレビ)などを手がけるディ・コンプレックスの有田武史氏は、「07年頃『ザ・イロモネア』を担当していたときは、いつもバナナマンにトップバッターをお願いしていました。収録全体の空気が決まる、重要で難しい役割なのですが、その日の観客のノリを一気につかめる。それだけでなく、ヤジを飛ばして盛り上げてくれたりと、本当に助けられました」(有田氏)。08年には「キングオブコント」で準優勝。その実力も再評価されることとなった。

ピュアで優しい芸風に支持

そして10年頃、情報がメインのバラエティーの波がやってきた。自分たちの思う笑いは一旦置き、番組の意図をくんで進行するとなったときに、彼らの能力が開花。どんな大物とも絡むことができ、バラエティーの経験が少ないアイドルも生かせる対応力の高さが重宝されることとなった。インタビューで設楽本人が言うところの“中間管理職”芸人として存在感を発揮し始めたのだ。

今ではオークラ氏、有田氏共に、「企画を成立させる能力が高い」と指摘するように、スタッフからの信頼度は極めて高い。特番などで、ポイントが定まっていないような企画でも、「的確に狙いをキャッチしてくれるので、つい企画書に『MC:バナナマン』と書きたくなるんです」(有田氏)。

根底には、もちろん本人たちの魅力がある。『そんなバカなマン』(フジ系)などで総合演出を務めるシオプロの塩谷泰孝氏は、「どんなに忙しくても、準備のときから手を抜かないし、常に一生懸命。『リンカーン』のパラパラ企画のときもそうでしたが、誰よりも熱心に練習するんです」(塩谷氏)。

さらに、きついツッコミをしない芸風は好感度が高い。現在のお笑い界は、変わったキャラが多く、ダメ出し芸が主流だが、「ツイッターとかがあるこの“1億総ツッコミ時代”にそれをせず、一番ピュアなところにいるから、好かれると思います」(オークラ氏)。

決定的なブレイクがなかったからこそ、求められるものを察し、バラエティー界に溶け込めた。自ら磨いてきた対応力で、ゴールデンタイムでも深夜でも重宝され、いつのまにかメインストリームにいた。「色がない」という言葉は、万能であることを象徴しているのだ。

(ライター 内藤悦子)

[日経エンタテインメント! 2016年9月号の記事を再構成]

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