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「町工場の娘」諏訪貴子さん 主婦が突然経営者に ダイヤ精機社長の諏訪貴子さん

2016/9/4

諏訪貴子さん

 東京都大田区の中小企業の街にあるダイヤ精機。典型的な町工場を率いるのは、32歳の若さで社長になった諏訪貴子さんだ。1990年代後半、ダイヤ精機は深刻な経営危機に陥る。2004年に経営者である父親が亡くなり、専業主婦だった貴子さんは突如社長に就任。リストラなどの改革を断行し、会社を再生した。貴子さんの著書「町工場の娘」(日経BP社)は、24日からNHKでドラマ化される。タイトルは「マチ工場のオンナ」。16年9月の貴子さんのインタビュー記事を再掲する。

 ――主要取引先の日産自動車は1990年代に深刻な経営不振に陥りました。経営環境の厳しい中小企業の経営を継承するのは抵抗があったと思いますが。

 「父の工場は精密金属加工を得意とする、ゲージなどを製造するメーカーです。お得意様から1つ1つの製品を受注し、製造して日産の工場などに納めます。当時9割は日産グループ向けでしたから、確かに厳しい時期だったと思います」

 「私の兄は6歳の時に白血病で亡くなりました。その後、私は生まれたのですが、両親にとっては兄の生まれ変わりでした。大学も工学部に進まないと、学費を出してくれないというので、そちらに行きました。そして父の工場の取引先である日産関連の自動車部品大手に就職しました」

 「兄と会ったことはありませんが、両親の思いをひしひしと感じながら生きてきました。ただ、私にも夢がある。大学時代にアナウンサーに挑戦しようと思ったこともありますが、うまくいきませんでした。一度は夢にチャレンジしたし、まあいいかなと。それに私が卒業した1990年代の半ば頃は、理系女子にまともな就職先はありませんでした」

 ――しかし、就職先の男性と結婚して出産し、専業主婦になります。

 「実は、男の子を出産したときに自分は役目を果たしたと思いました。自分ではなく、この息子が父の後継者になってくれればいいんじゃないかと。でも、専業主婦には3日で飽きました。その頃、父の会社の経営が一層厳しくなったこともあり、請われて従業員として入社することになりました。総務をやり、様々な分析をやりました。当時、工場には27人の従業員がいましたが、私は不採算部門をカットし、5人をリストラする提案書を作りました。平均年齢は52~53歳ぐらいだったでしょうか。60歳近いベテランの方が多かった。そうしたら、ある朝、父から『じゃあ、お前が辞めろ』と言われ、私がリストラされました。専業主婦に戻りました。しかし、工場に呼び戻され、再び同じ内容の削減案を出したら、またリストラされました」

 ――2度もリストラされたのに、2004年にお父さんが64歳で亡くなり、突如として32歳で社長になります。ご主人もいるし、子育てもある。よく受け入れましたね。

東京都大田区のダイヤ精機

 「確かに断る選択肢もありましたが、自分の意志で決断しました。実は父は一度も工場を継いでほしいと私に言ったことはありません。ただ工場のことを一番分かっているのは私しかいなかった。大田区の物づくりの街で育ったので、町工場の人たちがワイワイガヤガヤ言いながら、物づくりに精を出す姿を見るのは子供の頃から好きでした」

 ――いきなり経営難の中小企業の経営者をやるのはつらくないですか。

 「それは大変でした。まず過去のデータを徹底的に分析し、またリストラ案を作成しました。答えは同じでした。従業員27人のうち5人の削減案です。社長に就任して半年ぐらいは孤立してつらかったですね。しかし、主人にも誰にも相談をしないで、様々な意思決定をしました。経営コンサルタントはもともと信じていません。誰かに相談して失敗すると、その人のせいにすると思ったからです。リストラだけでなく、自動車部品大手で学んだ製造・工程管理などのノウハウをベースにIT(情報技術)化を進めるなど、生産効率も引き上げました。改革というか、常にデータを分析して計画を立てすぐに実行したことで、収益体質はかなり改善しました」

 ――30代前半の女性が経営をするのは困難の連続だったと思いますが、なぜ耐えられたのですか。

 「シェークスピアの言葉に出合ったからだと思います。『世には幸も不幸もない。考え方しだいだ』。これでマイナス思考で考えることをやめました」

 「そんなときに神風が吹きました。日産の業績が回復し、新車種を次々発売したのです。うちの受注も拡大し、経営は持ち直しました。リーマン・ショック後には2期連続で赤字になりましたが、黒字を維持するようにみんなでがんばりました」

 ――経営者をやりながら、家事をやり、子育てをするのは時間のやりくりが大変ではないですか

 「経営者に休みはありません。朝9時から夜6時までは工場にいますし、講演など社外の活動もある。家に帰っても食事や洗濯などの家事をしながら、ずっと仕事のことを考えています。睡眠が4時間ぐらいの時もありました。でも息子が大学生になり、主人も米国勤務になったので、家事はだいぶ楽になりました」

 ――大田区の中小企業の街から多くの大企業が生まれています。キヤノンの本社もこの近くにあります。株式公開して大企業に脱皮していこうとは考えませんか。

「大企業には魅力を感じません。作業工程を標準化して大量生産する大企業のようなやり方は私たちには向いていません。町工場の中で臨機応変に物づくりを進めていきたいんです。一時は従業員も40人ほどに増やしましたが、私が見られるのはやはり30人ぐらいが限度です。新入社員も欠員が出たら、入れるというぐあいで、私が必要なときに欲しい人材を募集しています。新入社員は1カ月ぐらいですが、私と交換日記をして、育てています。今は従業員も20~30代が増えてかなり若返りましたが、70代の方もいます。本人が希望し、能力があれば定年なんて関係ありません」

 ――経営者としての最終的な目標は何ですか。

 「社員が大田区に一戸建ての家が持てるようにすることです。大田区は地価が高いから夢のような話ですが、そのためにはもっと利益を上げて、給料を増やしてあげないといけません。息子を後継者にとは、今は考えていません。それは私のように、自分の意志で彼が決めることです」

諏訪貴子
 1971年生まれ、東京都大田区出身。95年成蹊大学工学部卒業後、大手自動車部品メーカーに入社。エンジニアとして勤務した後、出産などにより退職。先代社長の急逝で社長に。2004年から現職。著書に「町工場の娘」(日経BP社)などがある。

(代慶達也)

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