クモの「ひろくん」
立川吉笑
毎週水曜日恒例、談笑一門のまくら投げ企画。今週の担当は私、立川吉笑。お題は『あだ名』ということで、次回の師匠へまくらをつなげたいと思います。
先日、久しぶりに家でゴキブリを目撃した。去年の夏は一度も見かけることがなかったけど、独り暮らしをしている我が家はお世辞にも奇麗とは言えない状態だから、そりゃゴキブリも出るだろう。
大人になって驚いたのだけど、ゴキブリが苦手な人は思いのほか多いようだ。ゴキブリどころかセミやダンゴムシやカマキリなど、虫自体を毛嫌いする人も少なくない。子供の頃は普通に触ることができていたはずの虫たちが、大人になるとなぜ触れなくなるのだろう。
かくいう僕はゴキブリが苦手ではない。元々は苦手だったのだが、苦手なモノを好きになる方法を親に教わってからこっち、ゴキブリが苦手じゃなくなった。
子供の頃、クモが苦手だった。ピョンピョンとび跳ねる、得体の知れない物体が目の前に表れるたびに泣き叫んだ。その様子を見かねた母が教えてくれたのは「名前をつける」ということ。母親に促されて、目の前のクモに「ひろくん」というあだ名をつけてみたら、たちまち怖くなくなった。
ひろくんは決まって朝方に我が家へ遊びにやってきた。洗面所と玄関がお気に入りみたいで、気がつくとそのどちらかでいつもピョンピョン飛び跳ねていた。お腹が空いてるんじゃないかと思ってご飯粒をひろくんにあげようとしたこともあった。ひろくんは一切食べなかったけど。
ひろくんと友達になって何日かした頃、いつものように二人して洗面所に座り込んで喋っていたら、母親がやってきた。
「真樹、掃除機かけるから、そこどいて」
言われるがまま移動しながら何気なく元いた場所を見ると、ひろくんは掃除機に吸われて消えた。
初めて友達が目の前で掃除機に吸われる経験を味わった僕は、それ以来掃除機が怖くなった。何しろ友達をいなくしてしまう恐ろしい機械だ。同じ屋根の下に、そんな恐ろしいモノがあると思うだけで発狂しそうになった。見かねた母が教えてくれたのは「名前をつける」ということ。母親に促されて、掃除機に「そうた」というあだ名をつけてみたら、たちまち怖くなくなった。
名前をつけると対象に愛着がわく。苦手なゴキブリだってひとたび「後藤さん」とあだ名をつけてみると一気に好きになれる。だから、先日、家で後藤さんを見かけたときも、軽く会釈をして再会を懐かしむくらいで、別段驚きはしなかった。なぜか狭いところが好きな後藤さんは冷蔵庫の下に消えていった。あれ以来会ってないから、後藤さんはまだ冷蔵庫の下にいるのだろう。
そして苦手なものだけじゃなく、大事にしたいものにも名前をつけたらよいと母は教えてくれた。乱暴に扱っていた勉強道具にも「ぴっちゃん(鉛筆)」「ごむお(消しゴム)」「じょうじ(定規)」「バタ子さん(筆箱)」とあだ名をつけると途端に愛着がわき、それからは大事にするようになった。
僕は両親からもらった大事な大事なこの身体にも当然ながら名前をつけている。
下世話な話だけど、自分の男性器を息子と呼んでみたり、ジョニーみたいな名前をつけたりする人がいるけど、僕は男性器だけじゃなくありとあらゆる部分を息子や娘と思い、みんなに名前をつけている。
この原稿を打ち込んでいる右手の親指は「びーやん」、人差し指は「ひとっちゃん」、中指は「ゆびすけ」、薬指は「フィン太」、小指は「末っ子」。左手の親指は「おっくん」、人差し指は「さしちん」、中指は「マルキーニョス」、薬指は「輪いれ」、小指は「義理の末っ子」とそれぞれ名前をつけて可愛がっている。それまでは乱暴に扱っていた指たちも、名前をつけてからこっち、とても大事に扱うようになった。
右目は「長谷川」、左目は「田所」と名付けているし、右の黒目は「ダークホース」、白目は「白岩さん」、左の黒目は「黒沢」、白目は「ハクビシン」とそれぞれ名付けている。
先日、いつの間にか長谷川と、汚れたマルキーニョスや末っ子が接触してしまったらしく、白岩さんが真っ赤に充血してしまった時は驚いた。医者の先生にはマルキーニョスや末っ子はちゃんと洗いなさいと怒られてしまった。
名前をつけた数だけ自分に愛着がある証拠だとしたら、全身合わせて全部で921個の名前をつけた僕は、28個の名前しか付けていない三好よりは自分に愛着があると言えるし、一方で17893個の名前をつけた貝塚よりは自分に愛着がないと言える。
三好は僕みたいに目を「長谷川(右目)」と「田所(左目)」の二つに分けて名付けておらず、ただ目は「便利玉」としか分けていないから愛着が薄いのだ。
その点、目の構造に詳しい医学部の貝塚は、目を「長谷川(右目)」と「田所(左目)」に分けるのは当然として、長谷川をさらに「ダークホース(右の黒目)」「白岩さん(右の白目)」と分けるだけの僕のやり方じゃなくて、長谷川の瞳孔を「グルメ屋」、虹彩を「犠牲フライ」、結膜を「エンディング」、角膜を「書院造り」などとさらに細かく分けているから、自分に圧倒的な愛着がわいているのだ。
そんな貝塚を羨ましく思う半面、そこまで愛着が無くてよかったなと思う自分もいる。
指の爪や、髪の毛一本一本にまで名前をつけて愛着がわいている貝塚は、爪を切るたびに、そして髪の毛が抜けるたびに、爪や髪の毛を弔わないと気持ちがすっきりしないのだ。あいつの家の庭には爪塚や髪塚があり、日夜その供養が行われている。年中喪中だ。
愛着がわくということは、執着することでもある。
執着は我々に、喪失感をもたらす。大事なものを失った時に感じる喪失感。こんな思いをするくらいなら、初めから愛着心を抱かなければよかったと思うこともあるだろう。
自分を細かく分けて名前をつければつけるほど、自分に愛着がわく。そして同時にそれらを失った喪失感も大きくなっていくのではないか。だとしたら自分を細かく分けない方が幸せなのか。
さらには自分と他人を分けてしまうことですでに自分に愛着がわいてしまうのであれば、自他の区別すらもつけないことこそが喪失感を遠ざける一番の方法なのかもしれない。
などと、いつものように酒を飲みながら考え込んでいる深夜2時。誰かに見られている気がして、ふと足下を見ると、そこには心無しか大きくなった後藤さんが立っていた。
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