弁護士・堀田力さん リベラリストだった父母

2016/8/31

それでも親子

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は弁護士・さわやか福祉財団会長の堀田力さんだ。

――お父さんは英語の先生だったそうですね。

ほった つとむ 1934年京都府生まれ。58年京都大法学部卒、検事に。ロッキード事件で捜査と公判を担当。退官し福祉活動に注力。著書に「壁を破って進め」など。

「父は明治生まれで、同志社大学を苦学して卒業し、京都府宮津市の旧制中学(当時)で英語を教えました。そこで結婚し、私が生まれたのですが、実母は私が4歳のときに亡くなり、その後は5歳の時に父が再婚した養母に育てられました。養母も英語教師でした。父と養母の間に子が4人生まれましたが、分け隔てなく育てられました」

「2人ともリベラリストで、私は養母が英文の『モンテ・クリスト伯』を訳しながら読んでくれたのをよく覚えています。世は太平洋戦争で騒然としているのに、私が最初小説家になろうとし、次いで新聞記者を志し、京都大学に進学してからは検察官になりたいと志望を変えていっても『子どもには、したいことをさせる』と、何も言われませんでした。そこは自由主義ゆえでしょう。この不干渉にはとても感謝しています」

――当時としては非常に文化的な環境ですね。

「実際にはそうでもありません。父は後に大阪学芸大学(当時)教員に転じ、付属小・中学校の校長を兼務するのですが、あまり社会性や生活力がなく、養母は5人の子を抱えて必死でした。戦時中の私は、京都市内の家から郊外に1時間歩いて通い、かまどの燃料の枯れ木集めをしたものです。家庭での父はどうにも影が薄かったですね」

「ただ困るのは、明治生まれのリベラリストは、同時にわがままでもあることです。私が何か気にくわないことをすると父が怒り出す。すると、思想などぶっ飛んでどこかに消えてしまい、猛烈にかんしゃくを爆発させます。『自分は自分、子どもは子ども』などと建前は西洋から直輸入していましたが、個人主義というよりむしろ放任主義でした。わがままな点は理不尽だと思っていました」

――検事としてロッキード事件などで活躍した時は?

「私には直接何も言いませんでしたが、父の教え子だった人たちから、講義中などに私の話がよく出たと聞かされたことが何度かあります。接する時にはおくびにも出さなくても、誇りに思っていてくれたのかなと思います」

「そんな父は1986年に82歳で亡くなりました。最後の床で、父は私に『自分は生きていてよかったのかな』と真顔で聞きました。私は、父が戦後の激変期、英語教育に落ちこぼれそうになった少年たちに無償で英語を教え、彼らの学校嫌いを救ったことを思い出させました。父は納得し、安んじて亡くなりました。養母も数年後、80歳で他界しました」

「戦時中でも2人は手をつないで近所を歩いていましたね。子どもに意見を押しつけることなく、不干渉でいるという姿勢は、私にも受け継がれたように思います」

[日本経済新聞夕刊2016年8月30日付]