銀座の高級紳士服 元主婦、夫の借金100億に悪戦苦闘銀座テーラーグループ社長 鰐渕美恵子氏(上)

ビル一棟がとんでもない額の融資を可能にしていた時代です。銀行はいくらでも貸してくれました。バブル崩壊で不動産価格が暴落すると、この時に融資してもらった借金の利息がそれこそ泡のように膨らんで大変なことになってしまうのですが、このころの私はまだ、そんなことも知らずに、自分で企画したレディース用スーツの営業に回っていました。

営業はもちろん、働くのも生まれて初めてでした。「月に300万円は売る」と自分自身にノルマを課し、車を運転して、娘の学校で知り合った友人・知人のお宅を訪問しました。

あからさまに嫌な顔をされることもありました。「あそこまでしないといけないのかしら」「みっともないわね」などと、陰で噂する人もいたようです。それでも、私は平気でした。

商家に生まれたからでしょうか、商売は頭をさげてなんぼという感覚が、私にはごく自然と備わっていたようです。

人生はどこかで犠牲を払わなくてはならない

テーラー事業は本来、男社会です。そこに女性が入っていくことへの抵抗は強く、社内は「お手並み拝見」と高みの見物をしている社員がほとんどでした。「やる」と覚悟を決めた以上、数字は絶対に達成しなければ彼らに認めてもらえません。

必死でノルマをクリアしていきましたが、会社全体の売り上げはいっこうに上向かず、入社してからわずか3年で、ピーク時の7割程度にまで落ち込みました。

そんな矢先の1995年、私は「総支配人」に就任しましたが、この時に初めて財務関係を任せていた専務から、借金が約100億円にまで膨らんでいることを知らされました。借金があることはうすうす感じてはいましたが、まさか、そこまでの金額になっているとは思いませんでした。

寝耳に水のことで、まさしく血の気が引くような思いがしました。

融資した資金を回収しようとやってくる銀行とのやりとりは、熾烈(しれつ)を極めました。バブル崩壊で不動産も、絵画の値段も暴落していました。売るには最悪のタイミングなので「もう少し待ってほしい」と言っても、銀行は「早く売れ」の一点ばりです。夫が所有していた絵画のなかには、今持っていれば100億円近くの値がつく作品もありましたが、とにかく借金を減らさなくてはならなかったため、当時はそれを、泣く泣く4億円で売りました。

あの時売り払った絵画の1枚でも残っていれば、その後の経営も、もう少し楽だったかもしれません。

ただ、私はこんなふうに思います。人生、どこかで楽をすることもあれば、犠牲を払わなくてはならない時もある。私はあの時、財産をすべて失ったから、一生懸命に働いた。夫を支え、2人の娘を無事に育て上げるために必死にならざるを得なかったからこそ、今の私があるのだろう、と。

病床の夫に代わり「社長」就任

病床の夫に代わり、私が銀座テーラーの社長に就任したのは2000年のことでした。夫が亡くなったのは、その3年後。享年58歳でした。

実は夫が亡くなる前、辞めた社員が顧客名簿とロゴを持ち出して銀座に新しい店を出しました。しかも、彼らはこの時、お客様の寸法が書かれた型紙を改ざんしてから出て行ったのです。これも商売の現実です。

その時は悔しくて、悲しくて、法的手段に訴えることも考えました。しかし、時がたってみれば、そんな必要はなかったことがわかりました。

裏切った元社員たちのお店は、10年もすると銀座から姿を消していました。一方で、多額の負債を抱えながらも、私たちは生き残った。

子供のころ、父にさんざん聞かされた言葉を思い出しました。

商売に大事なのはまず信用、お金は後からついてくる――。何はなくても、私はこの「信用」を大事にしながら店を守っていこうと決めました。

鰐渕美恵子(わにぶち・みえこ)
1948年大阪府生まれ。70年甲南大学文学部英文科卒業。同年、大阪万国博覧会国連館VIPコンパニオンとなる。73年銀座テーラーグループの後継者、鰐渕正夫氏と結婚。92年銀座テーラーグループに入社。95年総支配人、2000年、3代目社長に就任。06年職人を育成する日本テーラー技術学院を開校。

(ライター 曲沼美恵)

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