古墳ごと火葬の「カマド塚」 須恵器工を多彩に埋葬か歴史新発見 三重県津市・西毛谷A遺跡

2016/8/30
カマド塚の調査は、屋根材とみられる大量の炭の除去から始まった(三重県埋蔵文化財センター提供)
カマド塚の調査は、屋根材とみられる大量の炭の除去から始まった(三重県埋蔵文化財センター提供)

三重県鈴鹿市と津市の境にある西毛谷A遺跡で、木材を使って木の部屋を作り、中に遺体を安置した上で火葬した古墳が見つかった。「カマド塚」と呼ばれる横穴式木室に火を掛けて焼いた跡で、周辺で生産した独特の形状をした多くの須恵器が副葬されていた。7世紀後半の古墳とみられる。付近は三重県内で最大の須恵器の生産地で、関係する有力者が葬られたのではないかとみられている。

西毛谷A遺跡は中の川と田中川に挟まれた標高約40~45メートルの小高い丘陵上で、天候がよければ国際レーシングコースとして知られる鈴鹿サーキットの観覧車がよく見える眺望に優れた場所に立地する。

およそ3メートル四方に

「何だ、この炭は」――。予備的調査で一辺約12メートルで「コの字」状に掘られた周溝の存在は確認していたため、墓があることは予想されていた。

ところが周溝のほぼ中央部分で木材の焼けた焦げた炭が一面に広がっているのを見て調査を担当した三重県埋蔵文化財センターの原田恵里子主幹は戸惑ったという。

焼土混じりの土を取り除くと、東西2.9メートル、南北3.3メートルの遺構があらわになった。柱穴や、壁や天井などとして使われたとみられる燃え残りなどから火をかけられた横穴式木室と推定された。木室は柱に桁をかけ、桁に壁材として木材を立てかけて並べることで製作したとみられる。

西毛谷A遺跡の調査区域はごく狭い。カマド塚があったのは右の枯れ木などが積まれているあたり

壁に使われた木材は外側が一部生焼けの状態で残っているものがあり、内側に傾いていた。材質は杉で、付近から調達したとみられる。木室内は床面に白っぽい砂のような土を薄くまいて整地した上に棺(ひつぎ)や副葬品の須恵器を置いたようだ。

遺構から見つかった須恵器は計24点。入り口と奥の壁付近で壺(つぼ)や皿などがまとまって置かれていた。直径約1.5センチ~約2センチの耳飾りとして使われた耳環(じかん)3点も出土した。

棺とみられる炭は確認できていないものの、須恵器の出土状況や耳環がみつかった場所、木室内の広さを勘案すると「埋葬したのは2体で、北向きに葬ったのではないか」と原田主幹らは推定。燃え残った壁などから内部の様子はある程度想定できるのだが、「どのような方法で棺を入れ、火をかけたのかを知る手掛かりは残っていない」という。

国内で火葬はいつごろから始まったのだろうか。これは『続日本紀』に、玄奘(げんじょう)三蔵の弟子の僧道昭を遺言により火葬した(700年)ことが始まりと記されていることはよく知られている。702年には病没した持統天皇も火葬された。

だが、それ以前の火葬跡の発見例も少なくない。6世紀後半の古墳時代終末期に木材を使って墓室をつくった上で、粘土で密閉してカマド状にし、遺骸を入れてそのまま墓室ごと火にかける方法があり、カマド塚と呼ばれている。

カマド塚は大阪府南部を中心に近畿地方や東海地方などでみつかっている。西毛谷A遺跡の場合は粘土を目張りのように貼り付けた跡は確認されていない。

このため調査した同センター調査研究2課の本堂弘之課長は「木で部屋をつくり、埋葬した後に火をかけたのははっきりしているが、カマド塚と呼んでいいのかはやや微妙かもしれない。ただ、横穴式木室をつくって火を掛けたのはこれが29例目になるそうだ」と説明する。

西毛谷A遺跡を北側から望む(三重県埋蔵文化財センター提供)

では、このような特種な方法で誰を葬ったのだろうか。分かりやすい手掛かりが出土した須恵器だった。

西毛谷A遺跡から南に約700メートル離れた徳居(とくすえ)10号窯跡(津市河芸町)。この窯で生産した柄のようなものが付いた皿や首の長い壺、杯などといった須恵器がカマド塚に副葬されていた。

付近は須恵器の一大生産地

須恵器は、粘土を成形して野焼きした赤い色の弥生時代からの流れをくむ土器とはまったく異なり、登り窯を使い高温で焼き上げる。硬質で青灰色や灰色をしているのが特徴だ。古墳時代に流入した技術で作られ、祭祀(さいし)や副葬品としてのほかにも、保水性に優れていることから食器や貯蔵容器などに用いられたと考えられている。

徳居周辺では消滅したものも含めると38基の窯跡が確認されており、古墳時代後期から奈良時代にかけて三重県では最大の須恵器の生産地だった。ここで生産された須恵器が周辺の古墳や集落などに流通し、使用されたとみられる。

同様に、大阪府南部の泉北丘陵一帯に広がる国内で最大の1000基以上の窯で須恵器が生産されたとされる陶邑(すえむら)窯跡群。ここで須恵器の生産に従事した関係者らを葬ったのが陶器千塚古墳群(堺市)など周辺の古墳群とみられている。陶器千塚29号墳は「カマド塚」という呼称が広まるきっかけとなった古墳だ。

このほかにもカマド塚が見つかった遺跡付近ではほとんどの場合窯跡が見つかっている。西毛谷A遺跡の被葬者らも「須恵器生産の関係者と考えるのが自然」と本堂課長はみている。

約80センチの大きさの須恵器2つをあわせて棺としている。左側のは頸部から上の部分を切り離したよう(三重県埋葬文化財センター提供)

葬り方さまざまに

西毛谷A遺跡の調査区域は東西約110メートル、南北約50メートルの比較的平たんで限定的な区域。このごく狭い土地に古墳時代~飛鳥時代の墓7基、平安時代の墓1基、江戸時代の墓1基が確認された。

目を見張るのは古墳時代~飛鳥時代の葬り方の多彩さだ。カマド塚のほか、長さ80センチ程度の2つの須恵器を合わせて棺にしたものや、長さ4.5メートル、幅1.2メートルの穴からは陶棺片と須恵器甕(かめ)片がつぶれた状態で出土した。

ほぼ時代が限られる短い期間にごく狭い墓域でなぜこのようにわざわざ様々な方法で葬る必要があったのだろうか。

鈴鹿市考古博物館の中森成行・元館長は鈴鹿市南部と津市の境界にあたる周辺地域の歴史的背景について、「古墳時代前期までは低湿地を臨む台地縁辺部に遺跡が集中していたが、須恵器生産が始まる古墳時代後期になると、山間部の台地まで集落が急激に広がり、茶臼山古墳群(25基)や大野古墳群(46基)など群集墳の発生につながった。同時に集落側の需要で大量の須恵器が必要となり、徳居の地域一帯に窯業生産地が形成された。集落と古墳群、窯業生産とが深く結びつき、社会を形成したことが大きな特徴。それが8世紀になると急に下火になり、四日市方向に窯が移っていった」と指摘する。

その上で「西毛谷A遺跡は見晴らしのいい、やや分離された場所。個性の強い集団がそれぞれにそれぞれの埋葬を行ったのかもしれない」と推測する。

三重県埋蔵文化財センターはカマド塚の遺構でみつかった柱穴や焼け残った木材の位置などを使って木室の構造を明らかにしていくほか、副葬された須恵器の調査を含め周辺の徳居窯跡群など一帯の歴史の解明につなげていくという。

(本田寛成)

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